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2022.10.05 引退ブログ

「怪我しまくり下手くそGKの結末」(坂巻颯梧)

ウジャ、紹介ありがとます。
平素より大変お世話になっております。ソッカー部のアーニャこと坂巻颯梧です。
「卒業ブログの序盤で盛り上がるのは氏家までだ。」
と、真聖が後輩に言っていたのを昨日耳にし、少し不安になっています。

氏家は1年生の頃の仕事集でいつもふざけていて、誰かと話していて全く仕事をしないやつでした。そんな彼が今では成長して、自ら犯した連続粗相の取り返しを毎日するようになりました。
彼はムードメーカーでいつもお下品なネタで部室を笑いに包みます。そんな彼と今年は長く一緒に居たせいか、僕まで下品キャラにされていることに少し怒りと違和感を感じます。
彼との1番の思い出は試合中にポジションを変える際に大声で「チェーーーーーンジッッッ」と叫んでいたことです。詳細が気になる人は本人に聞いてみてください。

私にもついに4年ブログを書く日が来てしまいました。毎年偉大な先輩方の4年ブログが始まると、毎日読むのが楽しみであると同時に、引退が近くなっていることを実感し、寂しい想いもありました。この4年間を振り返ると数え切れないほどの喜怒哀楽や様々な事件(オウンゴール、パンチング禁止令、陥没骨折、指の手術、ヘディングでアシスト、etc.…)がありました。何を書くかとても迷いましたが、4年間を振り返りながら自分の素直な気持ちをこの場を借りて書きたいと思います。

ブログの冒頭でよく見る、「拙い文章ではありますが」というテンプレがありますが、僕の文章は本当に拙いし意味がわからないかもしれません。ごめんなさい。社会人コーチにタメ口で話しかけた岡田舜立の次に日本語が下手くそなので細かい日本語のミスは気にせず読んでいただけると幸いです。

4年間を振り返ると、辛いことの方が圧倒的に多く、日吉本町駅からグラウンドまでの心臓破りの坂を登りながら、なんでサッカーやってんだろと悩む日々ばかりだった気がします。

1年目、入部初期からTOPチームで活躍し、チームに貢献している姿を想像しながらソッカー部への門を叩いた。同期の伊藤真聖がこよなく愛するクーパー走の入部テストを新入生で5番目の成績で通過。下田グラウンドに戻り、全体ミーティングで自己紹介した際に、慶應義塾NY学院出身ですと言うと先輩がざわつき、笑い声さえも聞こえた。NY校からソッカー部に進む選手は例年ほとんどおらず、NY校出身者の現実を突きつけられた。

何が何でもTOPチームでプレーしたいという強い想いを抱き、翌日からの練習に臨んだが、先輩GKたちとのレベルの差を痛感した。正面キャッチをこぼしてしまう、シュートが止められない、キックが味方に繋がらない、など自分の圧倒的な実力不足を痛感した。
それから地獄のような日々が続き、入部して1ヶ月で相手チームに対して1ゴール1アシスト。味方からのバックパスをダイレクトで自陣のゴールに流し込んだ。当時、全部員にも衝撃が走り、先輩たちが僕の名前が書かれたネームTシャツを見る度に、
「お前があのオウンゴールをした坂巻か。」
と何度も言われた。伝説のオウンゴールの動画を僕は持っていないので同期の誰か明日ください。その2週間後の練習試合で僕は部内での知名度を更に上げることになった。雨の日の夜の練習試合で事件は起きた。僕はキャッチし、氏家に要求されボールを投げようとした瞬間、氏家へのパスを狙っている相手FWの姿が目に入った。咄嗟の判断でスローをキャンセルすると雨でボールが滑り、僕の目の前のFWに溢れ、冷静にゴールに流し込まれた。その瞬間全てがスローモーションに見え、頭が真っ白になり、退部を本気で考えた。練習でもクロスボールに対し、パンチングでの失敗を連発し、当時のGKコーチだった髙橋さんに無期限のパンチング禁止令も出された。(当時はとても萎えましたが、今では毎年入部してくる後輩GKたちから笑いを取れるネタになりました。ありがとうございます。)
それからは少しでも上手くなるために、1つでもカテゴリーを上げるためにサッカーに全てを捧げた。授業との兼ね合いで平日全ての練習が6:30練だったため毎日21:00には就寝した。先輩GKのプレーを目に焼き付け、アドバイスはスポンジのように全て吸収した。高校時代に数々の栄光や実績を残したSFCの同期たちとは常に一緒に行動した。意識の高い友人たちと共に行動することで自分の中の基準も上がると思い、私生活も学校でもずっとくっついていた。あらゆる努力が少し実り、Cチームに昇格することができた。
その後の新人戦では良いパフォーマンスをすることができ、髙橋さんからBチームへの昇格も考えると言われた。しかし、その試合で相手の膝で顔を蹴られ頬の陥没骨折、1ヶ月間の療養を強いられた。それから間もなく、ソッカー部と慶應の附属高のサッカー部が集まり、試合をする蹴球祭で初めてBチームでプレーする機会をいただいた。そのアップ中に後ろでアップしていたSFC校生のロングボールが大きくずれ、新里くん(R4卒)から僕に投げられたボールに直撃し、僕の親指に突き刺さり、指があらぬ方向に曲がった。その後Bチームでの初試合は出場できず、ソッカー部員御用達の関東労災病院に直行した。診断結果は親指の靭帯損傷。その怪我はシーズン最後まで治らず、Bチームにも1年間戻ることはなかった。全くもって自分のせいではない度重なる怪我に苛立ちを隠せず、SFC校出身というだけで朝一緒に電車で通っていた同期の宮澤に苛立つ日もあった。

2年目、シーズン前のクーパー走で”3430m”を記録。もう1度言います、”3430m”です。これより走れなかった人たちはゴロニャーンって言うの禁止でお願いします。
1年目の度重なる怪我を乗り越え、2年目こそやってやるとシーズン開幕で意気込んだ。唯一のGK同期である小林将太がTOPチームに昇格してからはモチベーションを維持することが難しかった。いつも自信に満ち溢れており、自分のことをノイアーと称し、身長も大きく、反射神経はずば抜けていて、肩幅は常にハンガーを入れているかのように大きい将太と自分を比べた時に勝てるところが何一つ見つからず、これからの3年間が不安で堪らなかった。明治大学相手に将太がナイスセーブをし、チームを救っているところを見ると、自分が不甲斐なく、悔しくて江戸川陸上競技場から一言も話さずに家に帰った。そんな沈んでいた自分にモチベーションを与えてくれたのはZチームで共に過ごした新居くん(R3卒)だった。大変な実力者であるにも関わらず、辛い待遇を受けていた時期もあった。自分なら絶対に落ち込むような状況でも顔色一つ変えず、練習メニューを毎日考え、後輩の僕たちに愛情を持ってアドバイスをし続けてくれた。新居くんから言われた一言でとても印象に残っているものがある。
「自分が試合中に味方にコーチングをし続けて、相手にシュートを打たせなかった試合はとても嬉しい。」
僕はこの言葉を聞いた時に自分が目指すべきはこの姿だと思った。シュートを止めるだけがGKじゃない、自分ができることをやるしかないんだと考えるようになった。SチームのGKが負傷した影響でSチームのIリーグに出場することができた。チームは4連勝を飾り、4試合でわずか1失点しか喫しなかった。もちろん自分のお陰などでは全くないが、この2年間の努力が実ったような気がした。

3年目、前年度の結果から目標だったTOPチーム昇格の可能性に期待していた僕だったが、メンバー発表ではBチーム所属。しかし、シーズンイン直前の自主練習で塩貝がボール倉庫の鍵を閉め忘れ、連帯責任でDチームに降格。いきなり出鼻をくじかれた。
1年生には容姿端麗、完璧GKの健、ロン毛で技術力に定評がある我空、ありえないコースのシュートを止める巨人の根津、誰よりも努力するがポケットに手を突っ込んだままの千葉など、粒揃いのGKたちが入部し、どんどんと序列を落としていくことになった。
そんな中でもひたむきに練習に取り組み、3年目にして初めて髙橋さんからTOPチームの練習に参加してほしいと言われた。ついにTOPチームへの挑戦権を獲得し、ワクワクが止まらなかった。しかし練習開始15分で地獄に叩き落とされた。クロスボールをキャッチしに行った際に、DF役をしていた新里の頭と接触、右手の薬指がゴリッと鳴った。指に謎の冷たさを感じ、骨折していることがすぐにわかった。また1ヶ月間もサッカーができないのかと落ち込んだ。しかし、これまでにも何度も怪我や挫折があったため、来月からまたTOPチームを目指して頑張ろうと思えた。病院に行き、先生が一言目で「これは手術しないといけないよ」と言った。頭が真っ白になった。いつも調子が良く、上手くいっている時に怪我をする自分を死ぬほど恨んだ。家に帰ってから家族に手術の話をすると涙が止まらなかった。
指にボルトを入れ、1ヶ月間は汗を掻くことも禁止。2ヶ月後に初めてキャッチをすると指の中で骨が動く感覚があった。違和感はしばらく取れることはなく、シュートを受けるたびに指に激痛が走った。結局、対外試合に復帰したのは負傷から約半年経った8月だった。チームはシーズン終盤で、僕はDチームで3試合のみの出場に留まった。なかなか調子が上がらず、カテゴリーが昇格することもなかった。
GKは前日にどのカテゴリーの練習に参加するのかの配属がラインで送られてくる。先輩が怪我した時や、授業で出られない時、上のカテゴリーに空きが出た時など自分がそのスポットに入るのではないかと毎回期待していた。しかし、自分はいつも下のチームの横に名前があり、毎回一喜一憂し、落ち込むばかりだった。今考えると、どんな時でもやり続けるしかないだろうと言いたいが、当時の自分は何度も何度も参加メールで期待と落胆を繰り返していた。

しかし面白いことにソッカー部では他人の活躍や行動で良い影響を受けることが多い。荒くん(R4卒)が4年生で初めて関東リーグに出場し、筑波大学相手に勝利をもぎ取った。荒くんも2年生の頃に手術をしており、調子が戻らず自分より下のチームでプレーしていた時期もあった。そんな荒くんが関東リーグで勝った時は自分のように嬉しく、自分も最後の最後まで絶対に諦めないことを誓った。4年でCチームスタートだった時でも高いモチベーションを保てたのは荒くんのおかげです。
4年生が引退してからは最上級生となり、GK練習を引っ張る立場にいたが、なぜか上手くいかないことばかりでコーチに怒られることも増えた。自分が見本となり後輩に指導しなければいけないにも関わらず、何一つ良いプレーができず、情けない最上級生だった。

4年目、Cチームからのスタートだった。下級生が自分より上のカテゴリーに所属し悔しい思いもあったが、新居くんや荒くんを思い出すと同時に、家族にも恩返ししたいという思いで必死に頑張ることができた。4年目は練習でも試合でも自分が1番声を出し続けることを意識し、チームの雰囲気の向上に努めた。今までは他のGKの成功が嫌いだったが、今年はなぜか全員が切磋琢磨できる良きライバルとして見ることができ、自分の調子も右肩上がりだった。GKコーチ陣と練習する日々は毎日新鮮でとても楽しかった。Iリーグ開幕1週間前の練習試合で良いパフォーマンスをすることができ、Bチームで開幕を迎えることができた。それからは毎日が一瞬でチームを勝たせることだけを考えて過ごした。調子は良かったもののTOPチームに上がることはなく、アミノバイタルカップでは1年生のユンテが登録され、なんとも言えない気持ちにもなった。それでも慶應全体の成功のために日々の練習や応援部門の活動でチームのために全力を尽くすことができた。それは3年生のある日に横幕と三浦が朝のTOP練、C練に参加し、その後普通部練に移動した後、夜にDチームの指導をして1日中チームのために捧げている姿を見たからである。彼らだけでなく全ての学生スタッフがありとあらゆることを犠牲にしていた。チームのために働く彼らがいるのにも関わらず、自分が望んだカテゴリーにいないことや現状に満足していないという理由だけでチームために頑張らないわけがなかった。チームのためにどんな形でも貢献したいと思えるようになった。
そして7月のIリーグで結果を残し、4年生の夏にやっと関東リーグメンバーに登録され、TOPチームに昇格することができた。今西や千葉、はるやから
「そうご君がトップに上がって嬉しい」や、「頑張ってほしい」
という声を掛けられた時には本当に嬉しかった。自分がTOPチームに上がること、試合に出ることが想像以上に多くの人たちに影響を与えることができるのだと実感した。自分が荒くんの関東勝利に感化されたように、自分も下級生や同期、GK陣の心を動かせるよう、誰かの希望や原動力になれるよう、関東リーグの最終戦の笛がなる最後の1秒まで死ぬ気で戦い続けたいと思う。

最後にこの場を借りて感謝や想いを伝えたいと思う。
後輩たちへ、チームの現状や待遇、自分のプレーに満足できず落ち込む日々も多くあると思う。そんな時でも腐らずに、やり続けてほしい。自分と同じポジションにどんなライバルがいようと努力を続けてほしい。祖父から掛けられた言葉で幼い頃から胸に刻んでいることがある。
「努力している全員に必ずチャンスの電車が回ってくる。その目の前の電車に飛び乗れるかどうかが重要だ。」
という言葉である。いつ、どこで、何回巡ってくるかもわからないチャンスを物にするために、日々最善の準備を続けてほしい。
そしてどんな形でもいいので、胸を張ってチームに貢献していると言えることを見つけて欲しい。それはプレーでも良いし、部門でも何でも良い。ソッカー部という多くの人間によって成り立っている組織で自分の武器や実力を発揮できた時に、今まで以上の充実感と達成感を得られるはずです。

朝都くん、ボブくん、田原くん、新居くん、荒くん、川村、瑠架くん、ゆうや、たかしくん。

こんな僕ももう卒業ブログを書く時期になりました。下手くそでどうしようもない僕に基礎の基礎から教えてくださってありがとうございました。僕がフィジカルでバーを倒した時、ハードルに引っ掛けた時、返球が悪かった時、蹴るボールにリアリティがなかった時。数え始めればキリがありませんが、僕のせいで怒られ、練習の雰囲気を幾度となく悪くしてごめんなさい。いつも憧れの先輩たちでした。自分が先輩方みたいなかっこいい4年に少しでも近づけてると嬉しいです。引退したら将太と一緒にご飯連れてってください。

秀太、我空、健、根津、千葉、航大、歩武。
威厳、尊厳、威信がない頼りない4年ですいません。ソッカー部でこんなに生意気で可愛い後輩たちに恵まれるとは思っていませんでした。僕と将太は本当に恵まれていますね。僕の練習中のうるさい声を聞いてくれて、いつも僕にアドバイスをしてくれて本当にありがとう。みんながいたからどんなフィジカルも乗り越えられました。最高のライバルたちであり仲間です。関東リーグの最後の笛が鳴るまで、全力で1失点でも減らせるように頑張ろう。キーパー会(2回)絶対開きましょう。次は健に馬乗りされて4年の意地見せろとか言われないように頑張ります。

将太へ、
将太は思ってもいないだろうけど、僕はずっとライバルとして将太には負けたくない、追い付き、追い越したいと思ってやってきました。いつも独り言をブツブツ言って、常人には考えられない奇想天外なことばかりの将太だけど、スーパーセーブでチームを救う姿に憧れていました。1年生の時以来3年ぶりに同じカテゴリーでサッカーができて本当に嬉しいです。ラスト40日弱、俺たちのプレーで1試合でも多くチームを勝たせよう。

大好きな同期へ、
個性的でみんな変わっているけれど、本当に楽しかったです。みんなとの部室、お風呂での時間はかけがえのないものでした。みんなと同じ代で良かった。「社会人になってもよろしく」と言うと真聖やうじから今にも「就浪〜っち」と聞こえてきそうですね。残り40日弱、みんなで何とか乗り切ろう。
特に横浜支部のみんなには本当にお世話になりました。
「みんなとTOPで一緒にサッカーしたい、一緒に帰りたい、部室で話したい。」
が自分の中で大きなモチベーションになっていました。

髙橋さん、
氏家のブログで、4年間で1番上手くなったのは僕と書かれていましたが、それは間違いなく髙橋さんのおかげです。髙橋さんからいただいた、
「試合に出るだけじゃ意味なくて、出て勝てるGKにならないと意味がない。」
というお言葉はこの4年間でいつも意識しており、自分の原動力になっていました。最後の日のありえない程きつかったフィジカルトレーニングは一生忘れません。引退したら将太と3人でお酒でも飲みながら10本セーブしたいです。

藤川さん、陳さん、荒くん、
最後の1年間は色々な角度からの多種多様なアドバイスをいただき、試合で戦えるGKになったと思います。陳さんのドライフラワーも荒くんのステップも藤川さんの連続ハイボールからのダッシュも今となってはいい思い出です。残り40日、これまで以上に全力で駆け抜けます。

最後に家族へ、
まず、じいじ、ばあば。クリヴォーネを見つけてくれて、サッカーに出会わせてくれてありがとう。
父さん、母さん。5歳から今までずっと何不自由なくサッカーを続けさせてくれてありがとう。いつも試合を観に来てくれてありがとう。合計何時間の送り迎えをしてもらっただろうか。加古川、神戸、ニューヨーク、フロリダ、ボストン、大阪、御殿場など数え切れない程の試合を応援しに来てくれてありがとう。プロの試合を観に世界中連れて行ってくれたね。大学に入ってからはわざわざ家族で横浜に引っ越してくれて、毎日の朝練を駅まで車で送ってくれて、体づくりのために栄養のあるご飯を作ってくれて、色々なことを犠牲にしてくれて本当にありがとう。いつも愛情を持って全力で応援してくれているのが伝わってきました。良い試合をした時、カテゴリーが1つでも上がった時、自分のことのように喜んでくれて嬉しかった。あともう一踏ん張り、最後に輝いた姿を見せられるよう死ぬ気で頑張ります。

長く、読みづらく、纏まりのない文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。自分の想いや感謝が少しでも伝われば幸いです。

さて、明日のブログは伊豆に別荘がある慶應の太陽こと田中康太郎(4年・桐朋高)が担当します。好きな食べ物は二郎系ラーメン。好きな曲は福山雅治の「家族になろうよ」です。4ヶ月に1度、彼の右足から繰り出されるクロスは一級品です。先日慣れないヘディングをし、膝で着地をして負傷したため、今は少しの間お休み中ですが、全盛期は右のコーロー、左のハシケンと言われていたほどです。誰に何を言われようとも、大きなギョロ目を見開きながら「うっさい!黙れ!」と声を裏返しながら言い返すメンタルの持ち主の彼は卒業ブログで何を語るのか。
それでは最後にみなさんこーろーとご一緒に「野菜!にんにく!油ギトギトでぇ!!!」

《NEXT GAME》
10月8日(土)関東リーグ戦 第16節vs 青山学院大学 @非公開 11:00キックオフ

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