慶應BRB

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慶應BRBとは

慶應BRBとは

慶應BRBは、慶應義塾体育会ソッカー部卒業生による社会人チームです。慶應ソッカーには1960年頃まで学生と社会人の混成チームで天皇杯に挑んできた歴史があり、優勝回数も合計9回を数えています(慶応BRBとして6回、慶応クラブ/全慶応/慶応大学として各1回)。社会人チームとなった現在も1984年から加盟している東京都社会人連盟リーグを中心に、時に年齢差10を超える先輩後輩が同じ黄紺黄のユニフォームに身を包み、文字通りの真剣勝負に臨んでいます。頻度という意味でも最近は活動日数が年100日を超えることも珍しくなくなり、単なるOBチームという枠を超えた、ソッカー部の誇るべき特色となりつつあります。さらに2010年頃からはシニア世代(40歳以上)にも範囲が広がり、2022年時点でBRBシニア50、BRBシニア60が東京都シニア連盟のリーグ戦に参加するなど、生涯文武両道の具現化にいよいよ邁進しているところです。

※2015年に慶應BRBの活動からLB-BRB TOKYO(現東京ユナイテッドFC)が誕生した経緯についてはこちらをご覧下さい。

HISTORY

慶應BRBの歴史

源流となる「慶應ブルーソッカー」から数えると100年超となる慶應BRBの歴史を正確に辿ることは今や困難ですが、現在確認できる限りでは1928年の第8回天皇杯(当時の名称は全日本選手権)に「慶応BRB」として参加していたことが記録に残っています。ソッカー部が慶応義塾体育会の正式な部活動として承認されたのが前年の1927年ですので、最初のOBが輩出された年からOBと学生の混成チームとしての活動に慶應BRBの名称が当てられたのかもしれません。なお早稲田大学ア式蹴球部でも同様の理由で大学部活動承認翌年の1926年からOBと学生の混成チームWMW(Waseda Maroon and White)が活動を開始しています(『早稲田大学ア式蹴球部50年史』より)。
一方で、1978年発行の『慶応義塾体育会ソッカー部50年』によると、1923年に「慶応BRB」の名称で第一回全国大学高等専門学校蹴球大会に出場したとするOBの寄稿があります。同大会で慶應は優勝を果たしており、もしこの記述が正しければ慶應のサッカーチームとしての初タイトルはBRBの名前で取ったことになります。

そもそも慶応義塾にサッカーチームが創設されたのは1921年のことで、当初は体育会承認も受けておらず、チーム名も誕生時の「慶應ブルーソッカー」や第1回天皇杯出場時の「慶應アッソシエーションフットボール倶楽部」など、都度の変更もあったようです。あくまで推測ですが、長い年月の中でOBと学生の混成チームに対しては慶応義塾の三色旗・Blue Red and Blueにちなんだ「慶應BRB(慶応BRB)」の名称が次第に定着していった、というのが実際のところではないでしょうか。
いずれにせよ慶應ソッカーにおいては、100年の昔からOBと学生が同じチームのメンバーとして、まさに義塾の掲げる半学半教の精神を具現化する活動をしてきた歴史があります。その活動は単に一緒にボールを蹴るという程度ではなく、サッカー日本一を決める天皇杯を通算9度獲得するなど、内実を伴ったものでもありました。現在はチーム登録上の問題もあり、混成チームでの公式戦出場こそ難しくなりましたが、引き続き慶應BRBの名の下、獣身を維持しつつ人心を養っています。

GAME

慶應BRBと天皇杯

慶應BRBと天皇杯
日本サッカー協会「天皇杯65年史」より引用(昭和62年発行)

慶應義塾におけるサッカーと天皇杯には互いの誕生を巡る深い縁があります。また慶應BRBを中心として通算9度の優勝を飾るなど、天皇杯の歴史に慶應は深く名前を刻んできました。

2021年に天皇杯開催100回を記念して日本サッカー協会よりカップレプリカの贈呈を受けたことや、Jリーグチームが天皇杯の優勝回数増を背景に歴代最多優勝チームがどこなのかが話題になってきたこと等を機に、慶應ソッカーと天皇杯について下記資料まとめましたのでご高覧下さい。なお同資料はソッカー部関係者に向けて作成されたものです。表現等について不適当な点はご容赦頂ければ幸甚です。