2025.10.27 引退ブログ
「情動」(早川太晟)
平素よりお世話になっております。
総合政策学部4年の早川太晟と申します。
ふみや、紹介ありがとう。
三男坊論争、自分ではまだマシな方だと思います。そうごには目も当てられません。
ふみやの高校時代の写真を入手したときはびっくり仰天しました。あれほどまでに芋だったふみやが眉毛を整え、黒染めし、今では筋トレに励み、ハンサムボーイとして成り変わった姿は誰が想像できたでしょうか。そして外見だけではなく、いつしかの“なよせ”はどこかへ消えていき、”慶應の9番”として先頭を突っ走っていました。あとは”大きく”するだけだね。ふみくん。
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「サッカーを続けなかったら大学4年間何をしよう」
浪人していた1年間、ずっと大学に進学した後のことを考えていた。中学時代から考えていた留学に行こうか。たくさんバイトしてお金を貯めて、海外旅行に行こうか。2人の兄のようにアメフト、ラクロスなど競技を変えて新たな挑戦をしようか。サークルに入って、ザ・大学生のような4年間を過ごそうか。どの大学に進学するかもわからない中、ただ漠然とそんなことを考えていた。
高校の同期で大学サッカーを続ける人が多かったこと、たまたまインスタで高校時代に地区トレセンで一緒になった豪の投稿が流れてきたこと、慶應義塾大学に合格したこと、さまざまな偶然が重なり合い、私の心は自然と導かれ、ソッカー部の門を叩いていた。
サッカーを続けることすら悩んでいた自分が「慶應義塾体育会ソッカー部」という組織に身を投じ、4年間で感じた率直な思いをありのままに綴りたいと思います。長く拙い文章になっているかと思いますが、お手隙の際に読んでいただけたら幸いです。
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1年目
ソッカー部の始まりはB2。
大学サッカーの始まりに、4年間この組織でサッカーすることへの焦りと不安が募った。同期や先輩方にはJリーグ下部組織から上がってきた選手や、高校サッカーで全国常連校のキャプテンを経験してきた選手などいわゆる「サッカーエリート」と呼ばれるような選手が数多くいて、これからこの選手たちを相手に果たして上にのし上がれるのだろうか。ただシンプルにそんな疑問を抱いた。しかし、大学サッカーを続けるにあたり、レベルの高い環境でサッカーすることに高揚感を覚え、練習参加をし始めた時からこれまでのサッカー人生で出会った選手たちとは格段にレベルの高い技術、フィジカル、戦術理解力に圧倒され、刺激的なサッカーをする毎日が楽しかった。
B2とはいえ、守備職人てるくんの安心感とキーパーにヘディングでのバックパスを盗んだり、夏輝くんの真っ白な背中を見てクーパーを走ったり、1年生ながら古川くんと練習中にも関わらず大喧嘩したり、なんでB2にいるのかわからない瀬賀くんたちとサッカーに打ち込む日々を送れて幸せだったと思う。
秀太くん、創太くんの下、ありがたいことにIリーグ開幕戦からスタートで起用していただいた。カテゴリー関係なしに、黄色のユニフォームを身に纏い、1年以上のブランクがありながらも大学サッカーで試合に起用してもらえた喜びを味わっていた。しかし、高校時代のような満足のいくパフォーマンスは1試合たりとも出せなかった。そのまま調子は上がらず、リーグ後半は怪我も重なり、メンバー外やベンチを温める日々。
そして、「組織に貢献」という言葉からは程遠いほど、TOPチームがどういう生活をしているのかも分からないような関わり方をしていた1年生の終わりには、入れ替え戦で負け、3部リーグ降格が決まる。
非常に後味の悪いシーズンであった。
2年目
B1からのスタート。代替わりに1つカテゴリーが上がっただけ。
2節から数試合スタートで起用されるも、以降は怪我でメンバー外。学年で左貫と2人に絞られたリサーチの仕事として関東リーグ3部のスカウティングに行く週末。TOPチームの関東の応援もできず、スカウティングのビデオを撮りながら片手間にYouTubeで配信映像を見る始末。どこか組織の一員として必要とされているのか、帰属意識を持ちづらく、ソッカー部で過ごすことに疑念を抱くような時期もあった。
「ピッチ外はピッチ内に影響する」とは本当に真理をついていると思う。本当に些細な気持ちの迷いがプレーに影響していた。復帰してもメンバーに絡むことはできず、山中湖合宿の後、9月にCチームへの降格を告げられる。サッカー人生の中で最も挫折を味わった瞬間だった。これまでやってきたことを全て否定された感覚。真っ暗などん底に沈んでいくようで、光を失っていくような感覚だった。
気持ちが上向くのを待てるほど時間の余裕はなく、9月の3週間で6試合をこなした。Bチームから落ちてきた身として、勝利に導くことが自分に求められることであり、自分がその時点で最も必要なマインドであった。戦績は4勝1分1敗。宮川さんの下、自身の強みと向き合うこと、フットサルの練習でも身につくものは吸収しようとする姿勢など、純粋に「サッカーを楽しむ、上手くなる」という根本的な原動力を取り戻すことができたからこそ、この結果を手繰り寄せることができたと思う。紳と今西くんとの3バックに慶應のイムライネこと井村とあつきのダブルボランチ、都立駒場の系譜であり、お互いに時空が歪み年齢がおかしいましゅんくんとサッカーできたことも、この時期に苦しむ経験をすることができたこともよかったと思う。
その後、Bチームに戻り、産能戦でスタメン。コーナーゲッターの雄大くんの功績もあり、ひでくんの「立正」が完璧に決まった。しかし試合終盤に立て続けに失点。勝ち切ることができず、Bチームに”戻った”だけ。そして、次節の駒澤戦。前半15分で鼻骨骨折。たかくんの”スーパーセーブ”を目にすることはなく、シーズンを終えた。
個人として歯がゆい結果しか残せなかった反面、チームは入れ替え戦の末、2部昇格を決めた。
3年目
さまざまな葛藤に打ちのめされ、振り回された1年間だった。
中町監督が就任し、最初の延世定期戦には帯同できなかった。
「来年はBチームからTOPを目指そう」Bチームで共にした偉大な先輩方の背中を見て、そのような思いを胸に抱えながら過ごしていたシーズンオフ。LINEの通知を見て、TOPのメンバーボードに自分の名前が載っていることに驚いた。
自分の中でいつしか逃げるように、はたまた見ようとしていなかったのかもしれないが、曇り、霞んで明確に見えていなかったもの。
「関東リーグ、早慶戦に出場してチームを勝たせる」
目の前にはっきりと映し出された。あとはもうやるだけ。とにかくどんなことでもやる。そんな気持ちで日々を過ごした。
中町監督がよくおっしゃる、「チャンスは平等に訪れない」という言葉。自分の場合、チャンスは思っていなかったところで訪れた。紅白戦でのサイドバックでのプレー。センターバックしかやってこなかった自分は何をどうすれば良いかもわからなかった。でも、とにかくやる。言われたことを実践してみる。そんな生まれたての子鹿のように心許ない状態から始まったシーズンだった。
プレシーズンに関東学院との練習試合ではスタメンのサイドバック。今まででは全く考えられないような状況で、数ヶ月程度で培った付け焼き刃のサイドバックとしての技術と根拠のない自信は綺麗に打ち砕かれた。
以降、関東リーグが開幕してもずっとメンバー外。仮想の相手を演じることに徹する練習の日々。紳と眞木がグラマネになってくれた時に約束したこと。毎練習後に同期からの厳しい指摘。何一つ応えられていない自分を情けなく、不甲斐なく思い、怒りを覚える毎日だった。
前期も終盤に差し掛かり、アミノバイタルカップが始まった城西戦で初めてメンバーに入った。ターンオーバーしたメンバーの中でもベンチ。苦しい展開の中、延長に差し掛かるところで初めてピッチに立った。喜びとか嬉しさといった感情は全くと言っていいほど感じず、ただひたすら自分の役割を全うすることに集中し、これまでにないほど冷静にピッチに入った。結果、PK戦の末、勝利をもぎ取る。歓喜に包まれる中、自分は心のどこかで満たされない気持ちにやりきれなさを感じる。果たして自分はこの試合で何をしたのかと。
それ以降、メンバーに選ばれ、アミノバイタルカップ、関東リーグと途中出場でありながら試合に絡むようになり、国立競技場での早慶戦も経験することができた。早慶戦に関しては、入部当初の目標でもあり待ち望んでいた舞台だった。もちろん慶應を代表する20人のメンバーに選ばれたこと、後半アディショナルタイムにピッチを踏むことができたこと。この上ないほど貴重な経験をさせていただいた。しかし、結果は大敗。自分はボールに触れたかも覚えてないほどの時間しか出場していない。
試合終了後、スタンドで見ていた両親を見つけ、笑顔で手を振ってくれる姿に対して、私は苦笑いでしか返せなかった。
4年目
サッカー人生最後の年。
天皇杯予選から始まり、スタートとして出場していた。早稲田に勝利したこと、ようやくスタートとして出たこと、純太が脳震盪でピッチからいなくなったこと、他にもさまざまな要因はあるが、ただ1つ。
「自分が慶應を勝たせるCBになること」
メンバーに選ばれるだけでなく、ただこれだけを思い、全うする1年間にしようと誓ったはずだった。
シーズン前に左膝の内側側副靱帯損傷。
思った以上にリハビリは長引き、前期のリーグ戦の結果に焦りが募るばかり。
ようやく復帰戦となった7節国士舘戦。2点ビハインドの中、前半途中で投入された自分がやるべきことはチームを立て直し、攻撃に転じて勝利に導くこと。前半は流れを取り戻し、後半に良い流れを持っていけそうな感覚があった。大丈夫、やれると思った矢先。後半5分、自分のバックパスを掻っ攫われ、たまらずスライディング。人生初のレッドカードをもらうと同時に、左膝を再受傷。合宿所で横たわりアイシングしながら、配信の映像を確認した時、自分が与えたフリーキックを沈められた。試合終了時には0-5の大敗。立て直すどころか、完全に壊してしまった。
それ以来、黒服を纏い、チーム付きとしての方が関東のメンバー入りよりも多くなり、4年目の早慶戦を迎えた。
8月17日、等々力陸上競技場。
会場整備の仕事をし、応援席から声を枯らして舞台を盛り上げるでもなく、メンバーの20人として戦うわけでもなかった。
チーム付きとして、チームをサポートすること。
当日、自分に与えられた役割だった。
前期のリーグ戦から慣れ親しんだ仕事をこなし、等々力陸上競技場の盛り上がりを尻目に走り回っていた。試合開始の笛が鳴っても、やることは変わらない。いつもの流れで仕事をこなしていくだけ。
大雅が脳震盪で試合開始早々にピッチを後にした時に、一気に悔しさが込み上がってきた。ベンチにさえいれば、交代して出れたのか。チームのために従事すると決めた心の中でまだ諦めきれない感情が湧き出てくる。救護室に運び、涙する大雅に一言声をかけてグラウンドに戻った。
何かの業務をこなしていないと自分の感情が抑えきれなさそうでたまらなかった。
純太の魂のこもったゴール、真之介の勝利を手繰り寄せる劇的ゴールを目の当たりにし、刻々と時間が過ぎていく。
後半終了間際、チーム付きとしての業務も落ち着き、試合終了の笛が鳴るのを待ち、グラウンドを見つめる中、自然と涙が流れた。込み上がってくる涙を抑えることなど到底不可能だった。
早慶戦という舞台で4年生にして勝利することができた喜び、この学年、チームで勝つことができて本当に良かったと安堵する気持ち、もし自分がピッチに立って勝利に貢献することができていたらどれほど幸せだったかと悔やんでも悔やみきれない気持ち。
自分でも抑えきれないほどの様々な感情に押し寄せられ、涙となって溢れた。
現時点でも、関東リーグ後期でメンバー入りしたのは数回、メンバー外で応援、チーム付きに回ることもしばしば。全くもって順風満帆な4年間ではなかった。むしろ、肉体的にも精神的にも苦しいことの方が多かった。それでも、辞めようとは微塵も思わなかった。大学入学前に抱いていた、「サッカーを続けなかったら・・・」という妄想は、いつの間にか消えていた。
なぜなら、ソッカー部を選択していなければ経験することが叶わなかった数多の心震える瞬間に立ち会えたからである。
ソッカー部という組織の一員として過ごさなければ味わうことのできない辛さや苦しみを身をもって感じ、そして「ソッカー人」として従事することでしか見えてこない美しさを目の当たりにすることでより一層、切り取った一つ一つの”瞬間の輝き“に気づくことができる。カテゴリー、選手、グラマネ、アナリスト、マネージャー、トレーナーなどそれぞれの立場は関係なく、どんなに些細な出来事でも、組織のため、部員のため、誰かのためを想って行動している人がいること。その”瞬間の輝き“に気付くことができる人がたくさん集まり、それぞれが各々の立場でその輝きに応えようと努力することができる「ソッカー部」という組織に所属しているみんなと共に時間を過ごすこと。その積み重ねの先に生まれる数多くのドラマに心が震え、突き動かされてきた。
関東リーグ1部 第18節 桐蔭横浜大学戦
結果は1-3。大一番であっただけに余計苦しい。
それでも下を向く暇はない。前に突き進むしかない。
まだ終わってない。チームとしても、個人としても。
一つずつ勝ちを積み重ねよう。
最後の最後まで足掻いてみせよう。
泥臭く舞おうじゃないか。
まだ、部員全員が“輝き”を放ち、勝利に満ち溢れる顔が見たい。
そんな”心震える瞬間”を引退するその日まで何度も味わいたい。
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最後にはなりますが、この場をお借りしてお世話になった方々へ感謝の言葉を述べさせていただきたいと思います。
社会人スタッフの皆様
4年間、厳しくも愛のあるご指導、ご鞭撻のほどありがとうございました。
中町監督がいらっしゃってから、サッカーの楽しさの原点を思い出しました。また、一人の人間として、”漢”としてこの2年間を通じて多くのことを学ばせて頂きました。全くと言って良いほど、期待に応えられず、悔やむばかりですが中町監督の下でサッカーをすることができて幸せでした。
テソンさん。サイドバックに転向してからというもの、とにかく吸収することだらけでした。何度、練習中やエクストラでテソンさんの極上クロスにやられたことか。守備についてありとあらゆる細かな部分までお聞きし、真摯に受け答えしてくださりありがとうございました。
刀野さん。アンダーカテゴリーの頃から大変お世話になりました。その溢れ出る情熱から懲りずに檄を飛ばしていただきました。少しはお応えできたでしょうか?一方で、選手を真正面から受け入れてくださる刀野さんの存在に何度も救われました。ありがとうございました。
髙橋さん。一時期はどうなるかと思いましたが、慈英の後を継いだ自分としては1部の舞台で不安しかありませんでした。しかし、戻ってきてからというもの、セットプレーでの心強さが生まれ、伸び伸びと取り組むことができました。ありがとうございました。
同期
この代でサッカーができて良かったと心から思います。これほどまでにサッカーに向き合い、取り組み、何よりも「好き」な代は他にいないと思います。入部当初は、名のある出身チームばかりで怯えていましたし、自分の中学のチームであるJFC Veragistaなんてほんとにこうだいぐらいしか知らないほどレベルの高い環境でサッカーをしてこなかった自分が、これほどまでに大学サッカーを楽しむことができたのは間違いなく同期のみんなの存在があったからです。ほんとにありがとう。
後輩
名前をあげるとキリがないので、下田で見かけた際にその都度声かけようと思います。総じて、密かに期待しています。現時点で厳しい現状にいるもの、怪我に苦しむもの、人それぞれ悩むことはあると思います。最後の最後は誰も助けてくれません。自分がやらなければならない時がきます。しかし、その過程の中でみんなの周りには素晴らしい仲間がいると思います。そんな、同期、先輩、後輩にちょっとでも頼ってみると少しは気が楽になると思うので、是非参考までに。
セットプレー班のみんなには特に期待しています。川名、テイラー、快、山中、計盛、青銘、大地。慶應の強みでもある「セットプレー」を廃れさせないように、そして選手としてピッチに立って攻守ともに自分たちならではの形で勝利に導いてください。
忰田、彩花さん、石田さんをはじめとするトレーナー、リハビリに関わってくださった方々
怪我も多く、何度もお世話になりました。テーピングもケアも選手1番で行動してくださり、本当にありがとうございました。ひでくんや雄大くんを小馬鹿にしていましたが、すっかり自分も二人のようになっていました。それでも少しでも満足のいくようなコンディションでサッカーができたのは間違いなく皆様のおかげです。ありがとうございました。
両親
まずは22年間、何事も不自由なく取り組ませてもらって本当にありがとう。3兄弟の中でも1番迷惑のかかる息子だったと思います。大学でサッカーを続けた理由の1つとして、お母さんとお父さんに自分が大舞台でプレーしている姿を見せることがありました。3年生の頃の早慶戦、苦笑いにはなってしまったけど、一つその姿を少しでも見せることができて良かったです。4年生、最後の1年はなかなかプレーしている姿を見せることができていません。自分が出ない試合でも週末は駆けつけて慶應を応援してくれている姿。自分が出ていたらといつも悔しい気持ちでいっぱいです。残りの時間、少しでも長くプレーしている姿を見せられるよう頑張ります。まだ、手のかかる息子ですが、これから先、3兄弟の中でも1番の親孝行をするのでもう少しお待ちください。
まーくん、なお
普段は家にいないし、いてもほとんど喋らないけど、密かに応援してくれていたこと、とても嬉しかったです。1番身近な二人を見て、絶対に負けたくないとサッカーを続けていたらここまでやっていました。今後は何かと話す機会が増えると思うので、飲みにでもいきましょう。
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次の担当は、竹島彩夏です。
純太とSFC同期の3人のうちの1人で、入学当初はまさかのクラスが一緒で数多くの履修を手助けしていただきました。パソコンのタイピングが鬼のように早く、LINEのレスポンスは四六時中連絡が取れる状態にあるのではないかと錯覚してしまうほど早いです。グラウンドに出ては、気付いたら1番にボトルを渡してくれたり、脱いだジャージを受け取ってくれます。何においても速いことはいいことですが、生き急がず時にはゆったりとしてみるのはいかがでしょうか?
そんな、業務に関してはピカイチで仕事に関しては最も信頼しているあやなが高校では女子サッカーを経験し、大学ではマネージャーとして過ごした4年間をどのように綴るのか、乞うご期待ください。
《NEXT GAME》
10月29日(水) 関東リーグ戦 第19節 vs 流通経済大学 @RKUフットボールフィールド 18:00キックオフ
