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2025.10.19 引退ブログ

「存在意義」(五十嵐宥哉)

平素よりお世話になっております。商学部4年の五十嵐宥哉と申します。

岡﨑紹介ありがとう。彼は入部当初から組織愛が人一倍強く、その行き過ぎた組織愛にたびたび驚かされていました。実際、昨日のブログは長すぎて途中で読むのをやめてしまいそうになりました。あと漢字が苦手と誤解されているようなので訂正させていただきますが、大きく文字を書いたときにゲシュタルト崩壊が起きて、一時的に形が分からなくなっただけなのでご安心ください。

とうとう卒業ブログを書く時がきてしまいました。毎年、先輩方の生き様を映したかっこいいブログを読んで、その時の自身の現状を顧みて心を震わせリバウンドメンタリティに変えてきました。私自身もそのような誰かの心を震わせられるブログを書きたいと思っているのですが、何しろ人生で初めてのブログになるので大変拙い文章になってしまうと思いますが、サッカー人生を通じて感じてきたありのままを文字にできたらと思うので、お手隙の際に読んでいただけたら幸いです。
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引退が近づくにつれて考えることがある。
「私のサッカー人生は成功だったのか」
一般的にサッカー人生の「成功」は、「プロサッカー選手になれたか」で判断される。その意味では、私のサッカー人生はもちろん失敗である。小学生の頃にプロになる夢を諦めた上でサッカーを続けてきた私はむしろ大失敗の部類でもあると思う。
しかし、成功の形は人それぞれであり、自分が掲げた最終目標を達成できたらそれもまた成功だろう。それは「関東リーグに出ること」なのか「早慶戦に出ること」なのかは分からないが、それを達成できたら、その人にとっては成功だ。
でも、私にとっての成功はそれらすべてに当てはまらない。では、私のサッカー人生が成功だったのか、この4年間のサッカー人生を振り返りながら考えていきたいと思う。
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1年目
ソッカー部での生活は、まさかのTOPチームから始まった。
ピッチ内外から飛び交う声、高校時代とは比べものにならないフィジカルの強度、求められる技術レベル、一つひとつのプレーに対する強いこだわり。すべてに圧倒され、基準に満たない私は、せめて悪目立ちだけはしないようにと必死にプレーした。
当然のように次のカテゴリー編成でB1に降格した。悔しさは不思議と湧かず、「同期が多いB1の方が居心地がいいかもしれない」とすら思っていた。まったくもって情けない。これだけサッカーに、そして組織にすべてを捧げている先輩方がいる素晴らしい環境が目の前にあるのにサッカーに真摯に向き合うことができていなかった。そんな甘い考えの私は、B1でもIリーグには1試合しか出場できず、メンバー外の日々が続いた。
高校時代までは経験のなかった「メンバー外」。その現実を前に、「自分のポジションには蛯名さんや板倉さんがいるから仕方ない。他のポジションなら入れていたかもしれない」と自分の実力不足から目を背け、自分の外側にベクトルを向け言い訳を探すばかりだった。変わらない序列。土曜日はバー外練をしてから出場のないIリーグに帯同し、日曜日は関東の応援。この繰り返しに次第に疲れ果て、サッカーをしている意味が分からなくなった。
そして2カ月も経たず、B2へと降格。短期間での2度のカテゴリー落ちは、さすがにメンタルに突き刺さった。試合に出る機会は増えたものの、プレーに手応えはなく、ただこなしているだけの日々。そんな停滞感を破ったのが、夏の金沢遠征だった。
Bの1,2年チームで、トーナメントを勝ち進み中央大のTOPチームと試合をできる機会を得た。当たり前のことだがそれができていなかった自分にとって、「1つの試合に全員で本気で勝ちに行く」、そのプロセスとヒリヒリするくらい熱量のあるピッチに久しぶりに胸が熱くなった。何かを成し遂げたわけではない。ただ、自分がサッカーというスポーツが好きな理由、自分がサッカーを続けている理由をなんとなく思い出した気がする。
その後、大きな出来事があったわけではない。しかし、夏明けの日々はTOPチームに昇格するべく、自分にベクトルを向け真摯にサッカーと向き合い、本当に小さい1歩ずつではあるが前に進んでいる感覚があった。

2年目
シーズン序盤は、コロナとインフルエンザのダブルパンチを食らい、最悪のスタートだった。
それでも、このシーズンは私にとって大きなチャンスが転がり込んできた特別な年でもあった。
シーズンインが近づくにつれてコンディションは上がり、本格的に始めた筋トレと1日5食の食トレにより体は日に日に大きくなる。Bチーム所属でありながらもTOPチームのTRMに帯同する日々の中で、高い強度の中でもできることが1つ1つ増えていき、サッカープレイヤーとしての成長を日々実感していた。毎日のサッカーが本当に楽しく、念願のTOPチーム昇格への道を進んでいる感覚があり、充実感にあふれていた。
そんな矢先、思いがけないチャンスが訪れる。TOPのストッパー陣が度重なる怪我に見舞われ、私にも関東リーグベンチ入りのチャンスが巡ってきたのだ。さらに運命は続き、前日練習で大下が鼻を骨折。代わりに出場した中央学院大学戦で、私はついに関東リーグデビューを果たした。その試合では自分の役割を全うすることができ、初めてピッチの上で勝利の瞬間を味わうことができた。あの時の高揚感は忘れられない。アクシデントという形ではあるが、昨年まであんなに遠かった関東リーグという舞台に立ち、そしてチームの勝利に貢献できたことが嬉しかったし、何よりも自分の選手としての価値を少しでも証明できた気がした。
その試合でのプレーが認められ、そこからTOPチームに定着することになった。しかし、自分の力でポジションを掴み取ることはできず、起用されるのは常に「誰かの代わり」としてだった。さらにはその「誰かの代わり」としての唯一の役割を果たすことができなかった東京経済大学戦は忘れられない。自分の唯一の存在価値を証明できなかった。その後、チームは入れ替え戦を経て、2部昇格を果たした。

3年目
監督が変わり、中町監督体制の下でTOPチーム最下層からのスタートだった。私は新しい戦術にフィットすることが出来なかった。そんな中、時間だけは過ぎていき、リーグ開幕。順風満帆に活躍するチームとは裏腹にパフォーマンスが一向に上がらない日々。チームのためにグラマネになってくれた紳に「お前の分まで俺が頑張る」と伝えたのにも関わらずだ。「このままだとカテゴリー落ちるな」とずっと感じていた。その思考がだめだった。練習中も評価を失うことばかりを考えてチャレンジしない、何かを得ようとする姿勢がない。これが良いのか分からないが「どうせ落ちるなら少しでも何かを残してから、何かを得てから落ちよう」という発想の転換によって、立正戦後の練習試合からパフォーマンスを徐々に上げていき、また誰かの代わりではあるが産業能率大学戦で関東リーグに出ることができた。その後のアミノバイタルカップもほとんどの試合に出場し、関東4位、11年振りの全国大会出場に貢献することができた。関東1部の基準を知り、現状の自分とどれだけのギャップがあるのかを知ることができたのは大きかった。続く関東リーグ法政大学戦では自分のせいでチームを負けさせると同時に怪我をし、ここ3か月の間で僅かながらではあるが確かに積み重ねてきた自信とコンディションを一夜にして失った。復帰してからはバー外の日々が続き、その後チームは2部優勝・1部昇格を果たした。

4年目
昨年チームを引っ張ってきてくれた純太が長期離脱を強いられた影響もあり、2月の沖縄遠征後からスタメンに定着した。迎えた開幕戦、東京国際大学に2-1で勝利することができ、シーズン前の嫌な感じを吹っ切り最高のスタートダッシュを切れたはずだった。
その後は、1分5敗と勝てない日々が続いた。失点数を抑えることができず、「俺試合に出てる意味なくね。」と感じる日々。「俺があそこで飛ばなかったら、ここであと一歩後ろにポジショニングを取っていたら」とビデオを振り返り、自分の実力不足に嘆く。それでも試合に出てる者、監督が信頼して送り出してくれた者として、苦しみながらもひたすら前を向き続け、日々修正を重ねた。時間帯ごとに試合をマネジメントすること、初めて関東リーグに出る後輩への声の掛け方など今まで意識してこなかったこともできることはすべてやった。そんな中迎えた第8節、東洋大学戦でついに7試合ぶりに勝利をすることができた。自分達の進んでいる方向が間違っていないと再確認できた試合だった。何しろどんなところにも応援に来て、どんなに苦しい時でも声を出し続けてくれたみんなとそして苦しみながらも前を向き続けた仲間と喜ぶことができたこと、そして試合に出る者としての責任を果たせたことが嬉しかった。
しかし、前々から痛めていた手の骨折を理由にその舞台から退かざるを得ない状況になった。ここからなのにという気持ちでいっぱいだった。その後チームは2分1敗。アミノバイタルカップ関東9位全国大会出場、そして4年ぶり早慶戦勝利とチームは確かに1歩ずつ前へ進んでいた。私も8月末に3か月ぶりに復帰して、3泊4日の走り合宿を耐え抜き、総理大臣杯のメンバーには入ることが出来なかったが、徐々にコンディションが上がっていく感覚があり、後期リーグ開幕が近づいてきていた。またチームを背負って戦える。前期の分を取り戻す。次こそは存在価値を証明する。俺が慶應を勝たせる。そんな矢先だった。少し前から腰に感じていた違和感が鋭い痛みに変わりジョグをするだけでもインサイドパスをするだけでも痛い状態となってしまった。腰椎分離症だった。そして現在に至る。
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振り返ってみると、何かを成し遂げているようで何も成し遂げていない大学サッカー人生だったと思う。しかしながらこの喜怒哀楽の全てが入り混じった濃い4年間を通じて、たくさんの心動かされる瞬間や素晴らしい仲間と出会うことができたし、何より今後の人生のバイブルとなるであろうたくさんの学びを得た。
改めてこの組織を見渡すと、その素晴らしさに気付かされる。1試合のために寝る間を惜しんでリサーチをしてくれる人がいる。次週対戦する相手のスカウティング映像を遠いところまで足を運んで撮ってきてくれる人がいる。関東リーグが問題なく行われるように運営してくれているマネージャーや学連がいる。試合会場にミスなく荷物が運ばれるように積み込みをしてくれる人がいる。悔しさを抱えつつも全力で応援する人がいる。学生トレーナーとしてどんな練習にも顔を出す相場がいる。選手兼任でありながらありえない量のタスクを捌き続ける人がいる。この組織が正しい方向へ進んでいくようにすべてを捧げてくれているグラマネがいる。自分が知っている限りでも、こんなにも多くの部員が組織のために自分の時間を捧げている。他の大学を見渡してもこれだけ利他性に溢れた組織はないと思う。その献身を知っているからこそどんなに苦しくても1歩が出る。その献身に報いるために自分の持てる限りの最大値を出さなければならない。そして、組織全体でその新陳代謝を繰り返すことによって、この組織はより強く、より強靭になっていく。これが慶應の伝統だ。私は気づくのには時間が掛かったが、考えれば考えるほど素晴らしい組織だなと感じる。
このお互いがお互いを刺激し合い、高め合える最高の環境でサッカー人生最後の4年間を過ごすことができて本当に良かった。後輩達にもいち早くこの組織の素晴らしさを知り、自分の力に変えて欲しいと思う。

少し脱線したが、ここで冒頭の問いに戻りたい。
「私のサッカー人生は成功だったのか」
自分のサッカー人生はまずまずの出来だろう。プロサッカー選手の夢を小学生で捨て、そもそも大学生までやるなんて考えておらず、高校でやりきって終わると考えていた中では中々の成果を残せたのではないのだろうか。関東大学サッカーリーグ3部3試合、2部3試合、1部9試合、2024アミノ関東4位。プロを目指しているないしプロ内定の選手達と静岡県リーグしか経験してこなかった者が本気でやりあう。そのように考えたら、確かに一定の評価はあっていいものだと思う。
しかし、ピッチに立って自分の存在意義を示せた試合はどれほどあるだろうか。出るだけと勝たせる選手は違う。その勝たせる選手に自分は何試合なれただろうか?今年の関東9試合中2勝2分5敗。9試合で失点数25、1試合あたり2.7失点。CBとしてプレーしていた以上責任を感じざるを得ない結果。これでは勝てる試合も勝てない。CBの存在意義はゴールを守ること。このミッションを達成し自分の存在意義を示せた試合は何試合だろうか。度重なるDF陣の怪我や4年ぶりの1部とかそういったものは関係ない。重い伝統のある慶應を代表する選手として選ばれからには背負わなければいけない責任、使命がある。これを現時点で達成できなかったこと。これが私のサッカー人生の現時点での心残りであり、自分のサッカー人生を肯定することができない理由だ。
この4年間は、勝たせる選手になるべくサッカーにすべてを捧げてきた自負はある。練習の2時間のための他の22時間にすべく、食事、睡眠、1日の行動を徹底的にこだわった。2時間の昼寝をすると次の日体が重い感じがするから、1時間以内に抑える。この体重が最適だから夜飯の米の量は2合。試合前日はポカリ3Lは入れておく。週明け、瞬発力が落ちるから前日にアキレス腱に刺激を入れておく。週末の試合で後悔しないための出来る限りの準備はしてきた。
しかし結果が出なかった。それでも足りないのだ。
我々がいるのは勝負の世界だ。自分が何をしてきたか、そのプロセスは評価されない、結果がすべての世界。
現時点で関東リーグに絡んだことがない選手には問いたい。試合に出ることが目標になっていないのだろうか?果たしてどれだけの選手が慶應を勝たせる選手になるべく日々自分に向き合えているだろうか?いざピッチに立って現実を知ってから向き合う、それでは遅い。ピッチ上では誰も助けてくれない。試合開始早々失点し、1人の選手が退場し苦境に立たされた時にも助けてくれるものはいない。自分自身の力で変えるしかないのだ。この事実を常に頭に入れて慶應を勝たせる選手になるべく目の色変えて日々の練習に取り組んで欲しい。
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「結果が出ていない」とか「自分のサッカー人生を肯定できない」とかは現時点での話。私のサッカー人生はまだ終わっていない。
私はこの組織に活かされて自分の身の丈以上の様々な経験をさせてきてもらったと思う。残された時間は少ないが、自分のサッカー人生を正解にするためにも、そしてこの素晴らしい組織に恩返しをするためにも、必ずピッチに戻って自分の価値を証明する。最後の最後まで足掻き続ける。

最後に、この場を借りてお世話になった方々へ感謝の言葉を述べさせて頂きたいと思います。
社会人スタッフの皆様
サッカー選手としての在り方、ソッカー人としての在り方、そして漢としての在り方をご指導いただきありがとうございました。間違いなくこの4年間を通して、サッカー選手としても一人間としても二回りほど成長することができたと感じております。
何が武器か非常に分かりづらい選手だったと思いますが、自分の可能性を信じて起用してくださりありがとうございました。

同期
本当に長い時間を一緒に過ごしました。知らないことはないんじゃないかなと思うくらいみんなのことを知っていると思います。振り返れば苦しいことのほうが圧倒的に多かった日々でしたが、みんなが居たから乗り越えられました。特に、菅原、早川、井村にはお世話になりました。今シーズンは上手くいかないことの方が多かったけど、冬に掲げた目標を達成して、最後はみんなで笑って終わりましょう。

後輩
会う度にいちいち絡んでくる人たち大好きです。蟹、宮地、直希、しんた、ユンギあたり。4月ごろに急にしっかりした挨拶をするようになった石田、朔、風間今後が心配です。
伝えたいことは既に伝えましたので割愛させて頂きます。

両親
これまで長い間何不自由なくサッカーをさせていただきありがとうございました。言葉にすると軽くなってしまいそうですが、本当に感謝しています。連絡が来たかと思ったらお金の話ばかりで大変だったと思います。小中は試合のことをぐちぐち言われるのが鬱陶しかったのであまり試合に来て欲しくなかったですが、年齢が上がるにつれてどんな場所でも応援に来てくれる両親が普通じゃないことに気づき、息子のサッカーに興味を持ってくれているありがたみを感じています。最近はピッチの上に立っている姿を見せられていませんが、最後必ずピッチの上に立っている姿を見せるので応援に来てください。
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次の担当は、みんなから愛される清水皇貴です。彼とは積み込みで初めて出会い、なんかエセ関西弁を話すようなやつだなと思っていましたが、今ではリサーチ自チーム班長としてビシビシと指示を繰り出す彼の下で働くことになってしまいました。下級生の頃は、「オフのためのオン」と豪語するほどオフを愛する人間で、毎回ほぼ同じような数多のエピソードを部室で聞くことが週明けの楽しみでした。
一方で、1年生の頃から関東リーグ、早慶戦に出場してきた選手でもあります。3年生あたりから度重なる大怪我に見舞われ、思うようにいかず考えさせられる機会が多かったと思います。そんな彼がどんな言葉を綴るのか。期待しています!

《NEXT GAME》
10月25日(土) 関東リーグ戦 第18節 vs 桐蔭横浜大学 @桐蔭学園多目的グラウンド 17:00キックオフ

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