2024.10.18 引退ブログ
「それでも生きる意味」(山本瑞貴)
平素よりお世話になっております。
法学部法律学科4年の山本瑞貴と申します。
源、紹介ありがとう。
源のブログを読んでいたら思いがけず自分のソッカー部生活を振り返っているようで、不思議な気持ちになりました。
入部当初の小さい背中がここまで頼もしくなり、家も近くカテゴリーも同じで多くの時間を共有してきた身としては、こんなに嬉しいことはありません。引退後はもう1人交えて懐かしい話ができそうです。あと少しだけ、ピッチの上で待っていてください。
ちなみに源の失恋エピソード、当然たくさん持っています。ぜひ聞きに来てください。無料公開中です。
さて、ソッカー部で書く最初で最後のブログの番が、ついに来てしまいました。ありきたりなことも書こうと思えば書けますが、過去に先輩たちが紡いできた言葉や、サッカーと向き合ってきた同期のそれぞれの想いを読んだら、やはり生半可なことは書けないと思ったので、自分と素直に向き合い、感情を曝け出そうと思います。
—————————————————————————————
中学2年生の5月頃、ある難病を発症した。
それまでは、至って健康などこにでもいるサッカー少年の1人だった。幼稚園の年長で地元のサッカークラブに入って以降、そのままジュニアユースまでプレーを続けてきた。
ある日の深夜、突然腹部に激痛が走った。今までに経験したことのない症状であることをすぐさま悟り、急いで近所の病院へ運んでもらった。
医師の診察を待っていたおそらく1時間程度の間、悪化していく腹痛と留まることのない吐き気に何度も嘔吐を繰り返し、さらに恐怖で全身から血の気が引いて、手先と足先が痺れているような感覚に陥った。
お願いだから止まれ、もう2度と来ないでくれ、としか考えることができなかったあの時間は、今も完全に頭から離れることはない。体感およそ3時間。こうやって思い返してみると改めて気が付かされるが、完全にトラウマ。
その後は、治療と検査を経て、まさにドラマでよく見るシーンと同じように、診断結果が伝えられた。
病名は潰瘍性大腸炎。
それでも良いニュースはあった。寛解期(症状が落ち着いた状態)であれば、今まで通りの生活を送れること。そしてサッカーも問題なく続けられること。
そのためか、不思議とショックはなかった。自分なら乗り越えられる。周りの人がなるよりマシだ。サッカーができるだけ良かったと、大方ポジティブに捉えていた。
ただ一点、この病気が一生治らないということを除いては。
この出来事以降、サッカーの調子はというと実はとても良かった。スタメンで出れていた時期も長かったし、とにかく何の問題もなく学校へ行き、サッカーをすることができていた。
しかし1年後、再び症状が悪化。クラブユースの関東大会前あたりだったような気がする。
このタイミングで、初めての挫折を経験した。
足が遅くなった。体力がなくなった。
初めての長期離脱で、筋力と体力を失い、走るときには足に力が入らず、あっという間にバテるようになった。
それまでのサッカー人生で、ピッチに立てば足の速さで負けた覚えはなかった。どんなにきついランでも、自分にとっては体力を見せつけるアピールチャンスだった。ジュニアユース卒団の時の自分への寄せ書きを見返してみると、得意だった裏街道のことしか書いてないくらい、この「走り」だけで、試合に出ていたようなものだった。その最大の武器2つを、一瞬にして取り上げられてしまった。
高校生。中学生から通っていた中高一貫校のサッカー部に入部した。自分にとっては当たり前に試合に出られる環境のつもりだった。
1年目、想定より遅かったが、2つ上の先輩が引退した後の新人戦からスタメンに定着。したはいいものの良かったのはここまで。
新人戦敗退後、またしても症状が悪化し入院。貴重な入試休みを全て病院で過ごした。
その後は、入院→長期リハビリ→なんとか復活→再度悪化して入院という地獄のようなループ。去年の引退ブログで、平山はなが「なかなか学校に来れていなかった瑞貴が」と触れてくれたのはあながち間違いではない。本当に楽しかった学校生活とは裏腹に、文化祭や体育祭といった大きめのイベントを休むのも珍しいことではなく、出席日数もおそらく足りていなかったが、それでも様々な人の支えを借りて何とか卒業させてもらった。
そんな日々だったため、成長していくどころかどんどん退化していくような感覚。多分、1番足が遅くなって、体力が底を突いたのがこの時期。こんな状態でも、何とかスタメンで使いたいと顧問の先生が起用してくださったある試合では、前半の20分で体力切れの交代。応援に来てくれた同学年の子にはプレーが悪かったから交代させられたと勘違いされ、先生への感謝と同時に恥ずかしさを感じるといったこともあった。
結局、最後の選手権も、同期で自分だけが全試合1分も出場することなく、引退を迎えた。
だから、そんな自分がソッカー部への入部を決めた当初の理由は、サッカーでまだやり残したことがあるという、特に珍しくもないものである。
1年目と2年目。ソッカー部がどういう組織であるか、そこでどれだけの人が組織のために働き、貢献しているのかということを叩き込まれ続けた2年間だった。中3から成長の感覚を失い、「走り」という武器がいつの間にか弱点となり、さらに浪人で1年間体を動かしていなかった自分は、突然戦場に放り込まれた赤ん坊のような存在だったと思う。練習では足を引っ張ってばっかだし、もちろん試合には殆ど出れない。
一方、体調の方は、浪人の1年間でかなり落ち着いた生活を過ごせたこともあってか、かなり良くなった。それでも、周りと比べると体調を崩して練習を休む回数は多く、劣等感を抱えていた。たまに良いアピールをできた練習や試合があっても、練習を休んでしまえば自分の名前はメンバーボードの1番下に逆戻り。
他の人なら辞めてもおかしくない理由はいくつかあったと思う。入部に必要なクーパー走に入るまで、2か月間1人で多摩川の河川敷沿いを走り続けた。頭で想像するプレーに全くついていかない体。高校の時よりマシとは言えど、体調を崩すことで体力は上がらず、ランメニューは大抵最下位、さらには走り終わった後輩に励まされる日々。
けれども今日まで、辞めたいと思った日は1日もなかった。とにかくサッカーが楽しかった。なぜなら、久しぶりにサッカーが上手くなっているという感覚があったから。長期離脱こそなかったおかげで、自分ができることを着実に増やせているという実感を思い出せて嬉しかった。何より、赤ん坊のような自分に対してさえも、カテゴリーや立場に関係なく、多くの人が指導とアドバイスをし続けてくれた。とにかく育ててもらい続けた2年間だった。
3年目。当時のCチームの監督に宮川さんが就任したことは、自分にとって大きな転機となった。小学5年生からほぼSB一筋だった自分にとって、当時のソッカー部に最適なポジションはないと思いこんでしまっていた。必然的にWBをやる機会は多かったものの、そこで自分をどう活かすかはっきりしたビジョンが見えていなかった。
そんな時に宮川さんの作ったプレーモデルに出会って、自分の中のサッカー観が一変した。驚いたことに大学3年生で。
相手の配置に応じたポジショニング。入れ替わりでの背後アタック。相手を止めるボールの持ち方。数的優位の活かし方。味方がプレッシャーを受けずに済むパスのタイミング。
自分がいつ、どんな動きをすれば良いのかが本当に分かりやすかった。今思うと、考えながらプレーすることが自分に合っていたのだと思う。
そんな環境の中でサッカーをやることで、自分にできることがどんどん増えていく感触があった。まさにソッカー部に入部してから再び実感するようになった成長の感覚が、ここにきて確かなものへと変化した。調子もどんどん上がっていき、春の鹿島遠征から右WBのスタメンで使ってもらえるようになった。
そのままIリーグが開幕。初戦の相手は日体大。今では想像しがたい光景だが、同期では自分と並んで入江、一葉、凌万がスタメンにいた。ちなみに元同期(某)はベンチに。
そんな懐かしい話は置いといて、前半は緊張でミスを連発。それでも近くにいた隆希あたりに助けてもらいながら、トータルで見たらチームの勝利に貢献できて、Iリーグでも通用する自信がついた。
明らかに調子が良かった。この時期は1試合につき1得点関与を目標にするくらい結果がついてきていた。得意でもない守備でさえまるで抜かれる気がしなかった。
およそ1か月後、第4節の東海大戦。今思うと予兆はあったのかもしれない。順調に試合に出させてもらっていたが、この試合がある週の練習を何日か体調不良で休んだ。例えどんなに調子が良くても、そうなってしまえばメンバー表に自分の名前が載ることはない。それがサッカー選手として受け入れるべき当然のルールだと思っていた。ところが、宮川さんはこの試合もスタメンで使って下さった。こんなことは初めてだった。自分を信頼して使ってくれた宮川さんの期待に応えるためにも、持てる力を出し切って良いプレーをしよう、そう心に決めて試合に臨んだ。
パフォーマンスは良かったと思う。試合は負けてしまったが、相変わらず個人のところで負けることはなかった。病み上がりで体力は75分頃までしかもたず、確か正大のIリーグデビューをお膳立てすることになった気がするが、そんな状態でも試合に出られたことがとにかく嬉しく、そして自分にとって今後への希望を持つことができる試合だった。
この試合が、ブログを書いている今日この日までに出場した、最後のサッカーの公式戦になるとは知らずに。
—————————————————————————————
それまで、体調に関してなるべく前向きなことを言い続けてきた。無理をしていた訳でも、嘘をつこうとした訳でもない。ただ、それを言ってしまえば本当のことになってしまうと思って、ポジティブなことを信じ続ければそうなると思って生きてきた。「いつかは良くなる」と思うことができる自分に安心し、それだけを頼りにし続けてきた。
ソッカー部に入部した本当の理由は、いつかまたスピードと体力という武器が元に戻るということを、そして持病を気にすることなく、周りの選手たちと競い、本気の相手とぶつかる、もう一度そんな環境でサッカーをするということを期待していたからなのかもしれない。
そんな夢を、完全に果たすことはできなかった。またしても、昔からよく知る腹痛と、吐き気に襲われる日々が始まった。
思えば、どんなに楽しみな日でも、どんなに重要な日であっても、その痛みに邪魔され続けてきた。受験の当日も、修学旅行の最中も、そして調子があがってきた公式戦の日も。大事な日であればあるほど、その記憶は色濃く残り、気付けば頭の片隅にトラウマとして蓄積されていった。
そしてある時気づいた。10年前の「自分なら乗り越えられる」という期待に、全く応えることができていない自分に。
この10年間、体調のことを忘れて過ごすことができた日が、1日もなかった。
読んでいる人はまさかそんな訳ないと思うだろうか。
もちろん意識から跡形もなく消し去ってやりたい。でも、服薬や通院の度にその意味を突きつけられ、コンビニやレストランに行っても食事制限が付き纏い、翌日に一抹の不安を抱えながら眠りにつく毎日。何より治らないという事実がそれに拍車をかけていた。ポジティブに生きてきたつもりが、情けないことに、この病気に縛られ、囚われ続けていたことに気が付いた。
そして、もう二度とピッチに立つことは叶わないかもしれないという可能性が、初めて現実味を帯びて立ちはだかってきた。
今まで自分を守り続けていた最後のバリアのようなものが崩れていくような気がした。いつかは良くなるはずと、未来に期待と不安を先送りし続けてきた結果、この時初めて現実を直視し、もう自分には縋るものが何もないと気づいた。
なぜ自分がこんな思いをしなければならないのか、まるで理解できない。それが14歳という年齢だったのはなぜなのか。せめてあと10年だけ遅ければサッカーには影響なかったかもしれないのに。
毎月病院へ通い、毎日薬を飲み、点滴を打ち、長年食事制限を耐えてきて、色んな選択肢を断ってきた。それでも自分でサッカーをやると決めたから、全然苦ではなかった。
それなのにサッカーすら満足にできないなら、一体何のために頑張るのか。かたや周りの同い年はもう社会人として働き始めている中、自分の存在意義は何なのか。
周りの人が羨ましい。それが虚しいことだとわかっていても、普通になりたいと思うようになった。他に辛い思いをしている人なんて山のようにいると頭では理解していても、そんなものは何の慰めにもならなかった。
考えても無意味な疑問や感情が無数の波のように押し寄せ、考えさせられる日々が続いた。
「この病気さえなければ」と、何度そう思ったことか。まるで負けを認めてしまうかのようなこの感情を、口に出すことこそなかったが、自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。
そんな中、無意識に逃げてきた現実に嫌と言うほど直面し、自分と、病気と、向き合い続けた先で、何が見えてきたのか。
—————————————————————————————
淺海前監督には、常に体調を気にかけていただきながらも、同時に1人のソッカー部員として認めてもらい、接していただきました。
中町監督は、こんな状態の自分にも、望んでいたような基準の高い言葉をかけてくださいました。
刀野さんは、お父さんのような優しさを持ち、親身になって話を聞いてくださって、また復帰に必要な様々なサポートをしていただきました。
宮川さんのおかげで、サッカーやフットサルを通じ、その新たな面白さに気付くことができました。久しぶりに顔を出すといつでも前向きな言葉をかけてくださいました。
横幕さん。ソッカー部がどんな組織であるかを背中で見せ続けてくれた人。最初のクーパー走から2年間、決して見捨てずに多くのことを教えてくれました。
一葉と凌万。いつか2人にメンバーに選んでもらって試合に出るという目標がずっとモチベーションだった。いつも2人なりの優しさで迎えてくれた。
リサーチのみんな。ただでさえ膨大な仕事量なのに、不満一つ言わずカバーしてくれた。
同期。大半は年下とは思えない生意気さだけど根はいいやつばかりで、事あるごとにメッセージをくれたりして、居場所を作ってくれていた。試合で活躍する姿を見せてくれるたびに、勇気と喜びとちょっとの嫉妬をくれた。
名前出せよとか、俺に感謝しろよとか言ってきそうな顔が何人も浮かんできますが、一旦ここまでとさせてもらいます。すみません。
ですが、実際に、数えきれないほど多くの人が支え続けてくれたおかげで、今日の自分がいます。
どこかで一度でも突き放されていたら、繋ぎとめていた最後の糸はきっと切れていました。
本当に、ありがとうございます。
—————————————————————————————
たとえ一生治らないとしても、それを補って余りあるほど恵まれた環境にいました。自分にパワーと生き甲斐を与えてくれる人たちに囲まれ続けた人生でした。
間違いなく世界一の幸せ者です。
これからは自分を見失わずに突き進めます。いや、嘘です。まだ明日の体調すら心配な毎日です。でも、今まで与えてもらった幸せを何倍にもして返していく人生にしようと思います。
そういえば、先の話をするのはちょっと早かったかもしれません。サッカー人生最後の公式戦はまだ終わっていないので。
両親へ
特にこの病気になってからは、どんなことでもやりたいことを肯定して、応援し続けてくれたように感じます。おかげで後悔のない人生です。お母さん、10年間脂質の量を計算して、特製の料理を作り続けてくれてありがとう。お父さん、サッカーに出会わせてくれて、密かに応援し続けてくれてありがとう。これからも2人にもらったこの身体を大切にして生きていきます。
—————————————————————————————
次のブログは、根津拓斗(4年・慶應義塾高)です。
同期で最も遅く入部した私は、まだ右も左も分からずにめちゃくちゃビビっていた頃、彼の塾高出身、190cm、TOPチーム所属というプロフィールだけで、勝手にこの学年の首領だと決めつけていました。実際は全くそんなことなかったですが、好青年と知るまでは怖かったです。
全く気付いていないと思いますが、そんな彼が、実は私の家から5分程のスパに時々来ているのをスナチャで目にします。サウナ室の最後列で構えられていたらまた首領がいると思ってビビるかもしれませんが、いつか会えたら嬉しいです。
長年慶應のゴールを守り続けてきた男が最後に綴る言葉は、その性格通り優しさに満ちたものなのか、それとも内に秘めた熱い想いが溢れるものなのか、皆さま乞うご期待!
《NEXT GAME》
10月20日(日)関東リーグ戦 第18節 vs法政大学 @法政大学城山サッカー場 14:00キックオフ