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2021.09.22 引退ブログ

「自信」(日川優太)

平素より大変お世話になっております。飯塚亮貴からバトンを受け取りました、商学部4年の日川優太です。彼とは4年間常に同じカテゴリーだったので、沢山の思い出があります。引退するまでに、関東リーグの試合結果で「得点者…飯塚(日川) 」が出来たら最高です。

これからソッカー部最後のブログを書かせていただきます。拙い文章ではありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

【高校サッカー】
高校3年生10月21日、群馬県高校サッカー選手権大会で前橋育英高校に0-2で負けた。最後の大会ということもあり、応援にはサッカー部の関係者だけでなく、野球部やバスケ部の部員も来てくれていた。そして試合後、記念に集合写真を撮った。0-2のスコアボードの下で。

この写真を見ると恥ずかしくなる。試合に負けた後すぐに、負けを記すスコアボードの下で写真を撮るチームなんて普通はない。しかし、カメラマンの方に向かって「スコアボードの下でどうですか?」と提案したのは、紛れもなく自分だった。写真を撮る場所なんか大したことじゃないと思う人もいるだろう。

でも、自分では分かっていた。高校最後の大会で、同年代の高校生相手に敗戦を喫した瞬間、「悔しい」より先に「よく頑張った」という感情が生まれてきていたことを。高校3年間を懸けた試合で、心から勝利を信じて闘うことが出来なかった証拠である。自分の可能性を信じることが出来なかった証拠である。今思うと、最強チーム・前橋育英をリスペクトし過ぎたために、勝負へのこだわりが抜け落ちていた。そんなメンタルで試合に臨んでいた自分が本当に情けないと思った。

【自己不信】
それから、自分に自信が持てなくなった。「何をするにしても、どこかで再び諦めてしまうのではないだろうか」と自分自身を疑うようになっていた。大学で体育会サッカー部に挑戦してみようと思うこともあったが、あと一歩を踏み出す勇気が出なかった。実際に大学入学後は、新歓期間を利用して1日目はフットサルサークルの練習会、2日目はテニスサークルの食事会へ参加した。しかし、何かが違った。違和感しかなかった。
そんな時に浮かんだのは、高校サッカー部の先輩でもある高橋翔太さん(R3卒)と、高校サッカー部の同期で早稲田大学と東京学芸大学からそれぞれ関東リーグ出場を目指すと決めていた2人だった。とてもかっこよく見えた。私は、ここで挑戦出来なかったら、一歩踏み出せなかったら、一生中途半端で終わってしまう気がした。それは嫌だった。
体育会サッカー部で大学4年間を本気で過ごせたら、何かが変わるんじゃないか。関東リーグ出場という目標を達成出来れば、もう一度自信を取り戻せるんじゃないか。だから、私は体育会ソッカー部への入部を決めた。

【甘くなかった現実】
一歩踏み出した世界は甘くなかった。自分にとって地獄のような生活が始まった。

まず、スタートが完全に出遅れた。4月13日に入部したが、同期で一番遅い入部だった。推薦組・内部進学組は2月から、一般組も3月からチーム練習に参加していたのだ。仕事も練習も全く付いて行けなかった。

また、ソッカー部には約150名の部員が在籍していた。1軍から4軍まであり、私はもちろん4軍からのスタートだった。1軍にはプロ内定の選手がいたし、4軍にも全国大会経験者が複数人いた。想像以上のレベルの高さだった。

そして、4軍には週2回~4回、6時30分からの練習があった。朝4時半に起きて、6時から練習の準備をして、6時30分から練習スタートだ。これが週に4回ある時は体が徐々におかしくなるのが実感出来た。

入部して半年が経った時、私の名前が書かれたマグネットはボードの一番下にあった。4軍のフォーメーションが組んであるボードで、センターバックの7番手。ソッカー部に所属する部員150人中150番目の選手になっていた。

ソッカー部を辞めたいと思った。辞めたらどんなに楽だろうと思った。けれど、ここで辞めたら中途半端なままで終わってしまう。何も残らない。私は、関東リーグ出場という目標に向かって走り抜くと決めたのだ。自分の可能性を信じ抜くと決めたのだ。

【誰かの想い】
最後の最後で、私の心を繋ぎ止めてくれたのは地元の友人だった。大学1年生12月、結局4軍から昇格できないまま1年間が終わり、ソッカー部を辞めようか迷いながら地元へ帰省した時だった。
「ソッカー部のTwitter見てるよ!この前点取ってたじゃん!頑張れよ!」
この言葉に救われた。私が1年目のシーズンで決めたゴールは1点だけ。その1点を見てくれている人が居た。ソッカー部にいる価値なんて何もないと思っていた自分にさえも、まだ期待してくれている人がいることを知って本当に嬉しかった。そして、自分を応援し、期待してくれている人の想いに応えるため、もう一度頑張ろうと心に誓った。

さらに、自分を強くしてくれたのは同期の存在だった。ソッカー部にはグラマネという制度がある。3年生になる時、学年から選手を辞めてコーチになる人を決める制度だ。学年での話し合いを通して、その人が抱いていた選手としての夢をチームのために諦めてもらう。簡単に決まるものではない。話し合いは4ヶ月程続いた。この話し合いを終え、同期がサッカー選手からコーチに変わった時、同期の想いを背負ってプレーするようになった。
誰かの想いを力に変えてプレーすること。高校生の私には分からなかったことだ。自分のためだけでなく、誰かの想いを背負ってサッカーをするようになってから、自分は強くなれた。辛い時には、地元の友人や同期の存在が原動力となり、確実に一歩を踏み出せるように成長した。

【関東リーグ】
大学3年生7月。ついに、3年目のシーズン開幕戦で関東リーグ初出場を果たした。その時、多くの人がおめでとう、すごいね、と言ってくれた。シンデレラボーイとまで言ってくれる先輩もいた。周囲の人に認めてもらえて嬉しかった。とてつもなく高いレベルでサッカーが出来て嬉しかった。その中でも最も嬉しかったのは、私自身があんなに大変だったけど、目標に向かってやり抜けたということだった。
関東リーグ出場までを思い返すと、
・4軍時代にどうしたらよいか分からず、隅谷さん(R2卒)に「どうすれば試合出られますか。」と聞きに行った自分。
・とにかく試合に出場するため、どんなポジションでも貪欲に挑戦した自分。
・色んなポジションをやりだしたら、「便利屋で終わるなよ(笑)」と馬鹿にされた自分。
・「お前何やってんだよ(笑)」と笑われながらも、自主練でロングスローの練習を始めた自分。
・自粛期間、公園でリフティング練習をする小学生の横でネットに向かってひたすらロングスローの練習をやっていた自分。
・初めて1軍の練習に参加した時、トップ着を着てガチガチに緊張していた自分

今となっては、そんな自分が全部笑える。あの時俺、頑張ったじゃないか。ソッカー部で過ごした日々から自信を得ることが出来た。目標に向かって、恰好悪くても、必死に食らいついて、やり抜けた。一度は後ろを向いて逃げ出しそうになったけど、想いを力に変えることで、再び前を向いて進みだすことが出来た。その一歩が、ソッカー部で得た財産だ。

【そして、今】
チームは残留争いの真っ只中にあり、個人としても試合に絡めない時間が続いている。非常に苦しい。そんな状況でも、サッカーを頑張ろうと思える理由は2つある。
一つ目は、自分の可能性を最後まで信じたいからだ。高校時代に出来なかったことだ。残りの時間は僅かだが、まだ残されている。まだ成長出来る。最後まで足掻いて、絶対に残留に貢献する。
二つ目は、これまでお世話になった方々への感謝をピッチの上で表現し、結果で恩返しをするためである。サッカーという新しい挑戦を大学まで応援してくれている、父親。どんな時も私の味方でいてくれる、母親。試合前は必ずマッサージをしてくれる、じいちゃん。毎日美味しい料理を山盛りに作ってくれる、ばあちゃん。4年間ピッチ内外で苦楽を共にした、同期。下手くそな私に根気強く指導してくれた、先輩方。2人の背中を追い続けることで私を成長させてくれた、将也と哲。群馬に帰った時に気合を入れてくれた、地元の友人。1年の時からずっと応援してくれた、商学部ナ組の皆。関東1部リーグという舞台と素晴らしい練習環境を与えてくれた、OBの方々。個性を認め、自分にしか出来ないプレーを尊重してくれた、監督。

ここに挙げた人だけではない。サッカーを通じて何百人という人と出会ってきたが、その一つひとつの出会いが私にとって欠かすことの出来ないものだった。どれか一つ欠けても、今の私はなかった。
私と関わった全ての人に、関東リーグの残り7試合で感謝を表現したい。関東1部リーグ残留という結果で恩返しがしたい。

最後に笑おう。

長くまとまりのない文章になってしまいましたが、最後まで読んで下さりありがとうございました。今後共ソッカー部へのご支援とご声援の程、宜しくお願い致します。

明日のブログは、学連として活躍する李公平君です。私のクラスメイトでもあります。冷静でクールで優しい彼が、どんな熱いブログを書くのか期待したいと思います。

《NEXT GAME》
9月25日(土)関東リーグ戦 第17節vs立正大学
@江東区夢の島競技場  14:00キックオフ

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