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2026.03.02 部員ブログ

「街巷の哲学」(三浦成貴)

平素より大変お世話になっております。慶應義塾体育会ソッカー部、2026シーズンの主将を務めます、商学部新4年の三浦成貴と申します。「ソッカー」の益々の弥栄を期し、日頃より多大なる御支援・御声援をいただいております、三田ソッカー倶楽部、並びにスポンサー、保護者、関係者の皆様、そしてこの100年の歴史に伏して謝意と敬意を表し、「街巷の哲学」の嚆矢とさせていただきます。

 

どうか、鼻歌交じりに御笑覧ください。

 

 人が最も嫌厭するのは、「何が何だか分からないもの」です。生物の御多分に洩れず、「生き延びること」をその喫緊の目的とする人間にとって、未来は可及的予測可能である方が望ましく、予測不能性に満ち満ちた「何が何だか分からない」ような存在は、従って、自らの生存と秩序を脅かす「不穏分子」として蛇蝎の如く遇されるのが関の山ということになります。だから、人は意識的であれ無意識的であれ、あらゆる対象について絶えず〈判断〉を下そうと努めます。

 あらゆる対象のうちには、それに纏わる〈地平〉というものが広がっています。それは初期状態においては、人が最も忌み嫌う全き混沌の世界です。〈自己〉はあらゆる〈地平〉について、参入するのかしないのか、或いは滞在するのか退出するのか、その〈選択〉を下すということにいつも齷齪しています。この「参入/非参入」乃至「滞在/退出」の〈選択〉が〈判断〉の第一にあたります。この〈選択〉を司っているのは、対象との関係の親疎濃淡であったり、対象についての興味関心の消長であったり、好奇心であったり、拘りやプライドであったり、愛や未練であったり、憧憬であったり、偶然であったり、意志であったり、或いは返報性の原理であったりします。その〈地平〉間の出鱈目な入退出のうちに、「閃き」「インスピレーション」「比喩」「アナロジー」といった所謂「創造性」の萌芽や源泉があったりします。

 ここで、ある〈地平〉について「参入」乃至「滞在」の〈選択〉を採るという場合について考えます。勿論、〈混沌〉は生きてゆく上で大変にストレスフルな世界ですから、〈自己〉はそのうちに差し当たりの風雪を凌ぐための簡便な〈秩序〉を構築し、その内側に安息しようとします。例えば、「こいつは思想が強い」とか、「こいつの無駄に分かりにくい文章は難解と高踏を装った空疎な賢しらで、伝えるためにあるという言語の本質をまるで弁えていない」といった〈措定〉がそれに該当します。ここで言う所の〈秩序〉の〈措定〉が、〈判断〉の第二にあたります。
 対して、ある〈地平〉について「非参入」乃至「退出」の〈選択〉を採るという場合には、それは「対象そのものを視界から排除する」ということに対応します。そもそも参入しないということもあるし、参入した後で退くという場合や、参入して差し当たりの〈秩序〉を見出した後で退出するということもあったりします。「こいつは思想が強いから、関わらないようにしよう」とか、「こいつの文章はお高くとまっているだけで其の実何の価値も蔵していないから、どうせ時間の無駄だし読むのやめよ」といった行為が、それに該当します。

 ここに、ある〈地平〉についての「参入乃至滞在の〈選択〉」と「〈秩序〉構築の成功」を前提します。同じ〈地平〉に滞在し続けている限り、既知の〈措定〉では説明できない事象がその外側から来襲し、既成の〈秩序〉が解体されるということがあったりします。「こいつの言っていることは意外に論理的で現実的で、『思想が強い』とかいう陳腐で有り触れた大衆的定型文では回収し得ない掬すべき洞見が詰まっている可能性がある」とか、「言語学を幾らか勉強してみたが、言語はその構造的事情故に『状況描写の不完全性』に常態的に罹患しており、ある言語表現について、万人にとっての分かりやすさと経験の個別一回性・リアリティはどうやら反比例の関係にあるようである」といったことが、当該の事象に該当します。斯くして既成の〈秩序〉が解体され、〈混沌〉にアクセスするに至った〈自己〉は、自らの安住の地を取り戻すべくまた東奔西走することになるわけですが、然うして千思万考をして思案投げ首しているうちに、軈て、先に到来した変則事象にも対応できるようなより強固で洗練された〈秩序〉を再構築するに至るということがあります。この〈秩序〉の解体と再構築のうちに、〈自己〉は「変成」を経験します。「変化」「進化」「進歩」「成長」「成熟」といった諸概念が、それに相当します。
 〈自己〉の変成のためには〈秩序〉の解体というプロセスを通過する必要があるわけですが、それは必ずしも「変則事象が襲来する」という受動的な仕方で出来するものではありません。
ひとたび〈混沌〉に開かれてしまえば、元の〈秩序〉を再現できるとも限らないし、より堅牢な〈秩序〉を新たに構えられるという保証も薬にしたくもありません。「〈混沌〉にアクセスする」ということは、自らの生の拠り所を失うということであり、その意味で「死に開かれる」ということです。
 しかしそれでも、「〈世界〉はもっと広いはずで、もっとずっと豊かな意味がきっと眠っている」と〈世界〉を信頼し、〈秩序〉の外側に出ようと〈自己〉が強く願望するということがあったりします。〈自己〉はこのとき、未来についての不安・恐怖と〈世界〉についての力強い信頼とのあわいで、打ち震えることになります。この勇ましき震動(「勇震」)が、周囲に伝播し、〈秩序〉を内側から揺動・瓦解・解体させ、〈自己〉の〈世界〉へのアクセスを可能にするということがあったりします。さらに、その震動は〈混沌〉をも(或いはその〈秩序〉をも)貫いて、同じ〈地平〉に息衝く〈他者〉の「共震」を惹起し、「〈世界〉のより豊かな意味を見つけ出すための旅」に〈彼ら〉を同伴させるほどのインパクトを放つということがあります。このインパクトの大きさのことを、「リーダーシップ」と呼んだりします。
 ここでの要諦は、特定の〈地平〉に滞在し、差し当たりの〈秩序〉の内側で安息している〈存在〉は、内実それが「差し当たりの」〈秩序〉であり、外側には〈混沌〉が茫漠として横たわっているということを実地には知らないということです。〈秩序〉の内側から外側を見ることはできないということです。従って、「今現在の〈自己〉を取り巻いている〈秩序〉の外側には混沌たる〈世界〉が茫洋として広がっており、その〈世界〉にはもっとずっと豊かな意味が、きっと眠っている」という、卑小矮小な〈自己〉の〈秩序〉と周囲の広大霊妙な〈世界〉というメタ的・想像的な描像についての仮設と圧倒的信頼、そして〈世界〉に開かれようという〈自己〉の力強い覚悟があって初めて、勇震は発生することになります。ここで言う所の、「浅近偏狭な〈自己〉と深遠幽玄な〈世界〉という構図についての想像的な仮設と信頼(乃至〈世界〉についての信頼)」のことを、「謙虚」と呼んだりします。

 少し脱線しますが、件で二つの〈判断〉や変則事象の襲撃による〈秩序〉の解体といった諸点に論及してゆく過程で、私がその具体例として「思想が強い」という言明を執拗に採用するに至った経緯について、些か開陳させていただければと思います。
 殊に大学に入ってから、私は「思想が強い」という〈判断〉をされることが多くありましたが、私見の及ぶ限り、私についてそう排他的・嘲弄的な眼差しで以て「思想が強い」と言い捨てている人に限って、自分が「強い」と形容した当の思想について聞こうとも知ろうともした試しはなかったし、大して読書もしてないくせして「読書の目的は知識の獲得にある。従って、知識の合理的・効率的な吸収を可能にする電子書籍やインターネットが台頭隆盛した今、紙書籍は風前の灯にある」とかいうことを「恰もそれが世界の全部を包括する絶対的真理であるかの如く」高言したり、小説一冊耽読したこともないだろうに「文学なんて鯔のつまりは虚構でしょ、そんなの読んでたって何の意味もない」とか「恰も自分が文学のアルファからオメガを知悉しているかの如く」広言したり、所詮メディアの上で流布しているような「眇めても見えない」ほどに部分的な情報で以てその語のイメージを形成したんであろうに「あいつは宗教だ」とか「宛ら自分が宗教の何たるかを熟知しているかの如く」放言したり、少し成功したくらいで「私は自分の『努力』一つでここまで成り上がってきた。環境なんて関係ない。成功できない人間は怠惰なだけだ」とかいった恐ろしく単純で浅はかな推論を得得と言い募ったりしているのは、果たして偶然でしょうか。
 成る程、対象について何かしらの〈判断〉を下すということは生命の必然であり、その〈判断〉が一定の妥当性と多分に裨益するところとを有しているなどということは論を俟たないでしょう。しかし、「〈世界〉は〈自分〉の知らないことで溢れており、〈自分〉が知っているよりももっとずっと豊かな意味が、きっと眠っている」という〈己〉の管見と〈世界〉の豊饒についての想像的な仮設と信頼という謙虚な精神を忘れたら、人間を人間たらしめる尊き美質のようなものが失われてゆく気がしてならないのです。知らないのなら知らないなりに、弁えておくべき「分限」というものがあるのではないかと私は思うのです。「『思想が強い』とか『それは宗教だ』とか『イタい』とか『キモい』とか『クサい』とか『承認欲求』とか、そういった『俗にウケる』通俗的定型言説に縋り付くことで己のボキャブラリーの貧弱と分節手段の払底から目を逸らそうと鼻息を荒くする」という知的横着を手放しに礼賛するようなその甚だ以て荒廃した退嬰的で散文的で浅ましい感受性に、私は食傷を越えて慨嘆しているのです。だから成熟した老成の士は、「分かりやすい」ものだけに飛び付き「分かりにくい」ものを「無意味・無価値」と安易に一括一蹴する事程左様にインスタントでアロガントなこの時代を、「これだから最近の若者は」という表現に託して憂えているのだと私は思います。

 閑話休題、ここで、「生きる意味」に纏わる〈地平〉について考えます。殊に「生きる意味」についての〈地平〉ともなると、問いの混沌が過ぎるが故、私たちはその上に〈秩序〉を打ち立てるということが中中叶いません。ですから私たちは、流行に追随したり、スマートフォンに耽溺したり、娯楽や酒色に淫したり、ゲームやSNSに没入したりして、その〈地平〉になるべく足を踏み入れるということがないようにいつも汲汲として努めています。しかし、「生きる意味」というのはやはり誰にとっても切実な問題であり、ふとした弾みで私たちはそこに参入し、その〈混沌〉に打ちのめされ、人生の空虚や悲哀や暗澹を悟ってしまったりします。
 しかし、私たちはそこで、自分の「生きる意味」に関わる〈地平〉に進んで参入し、〈混沌〉に小突き回されながらもそこに〈秩序〉を打ち立てるべく何とかして足掻こうとする〈他者〉の存在を目の当たりにするということが、時としてあったりします。〈彼〉は、私という存在に「もっとずっと豊かな意味が、きっと眠っている」と信じて、私を信頼し、私の生きる意味を見出すべく〈混沌〉のうちで独り勇震しているのです。
 自分という存在にはきっと意味があって、もっとずっと豊かな意味がきっとあるはずだからと、己が身命を賭してまでその〈混沌〉に立ち向かおうとしてくれている〈他者〉が傍らにいてどうして、どうして当の〈自分〉が、その〈地平〉から逃げようだなんて思うことができるでしょうか。「そんなこと考えたくもない」とか「私には生きる意味なんてない」とか嘯いて、〈自分〉が自分の〈世界〉へのアクセスを拒み例の如くそこから逃げ果せようだなんて考えようものなら、〈私〉は〈彼〉のその尊き献身を踏み躙ることになります。そんな非情で残酷なことが、どうしてこの〈私〉にできるでしょうか。
 そのとき〈私〉は、宛ら「〈私〉は私という〈地平〉の上で進み続けるということを宿命付けられた存在である」と強く訴えるかのように、曰く言い難い、しかし夥しいほどに強大なエネルギー・使命感のようなものが、自らの内奥から湧出する感覚を経験します。そして、その力に突き動かされるがままに、〈私〉もまた震え上がるのです。然うして、人は共震するのです。
 〈他者〉の勇震に共震し、自らの生の意味についての〈混沌〉に分け入っていこうと〈自己〉自身が強く決意するとき、〈自己〉は同時に、その〈世界〉のうちに自らの生の確固たる拠り所が既に厳として存在しているということを覚知します。有るかも無いかも分からない自分の存在意味を見つけ出すために勇んで死地に赴く〈他者〉という存在そのものが、〈私〉にとってはこれ以上にない励みであり喜びであり幸せであり、「生きる意味」に他ならなかったのです。
そしてその恩義に報いるべく、今度は〈自分〉が、他者の存在を信頼し、死を賭し勇を鼓して震え上がり、その意味を見出すべく他者の〈混沌〉に挑み続けるのです。その〈私〉の勇震が、他者の人生に確固たる意味を与えることになるのです。

 「〈自分〉は、自分という〈地平〉のうちで進み続けることをその宿命として負託された存在である」というほとんど霊的な覚知────「器」としての〈自己〉────が、自分の生を肯定する。「生きる意味」という広漠とした〈地平〉の上で、たとえ〈秩序〉のうちに安んずるということが叶わなくとも、〈他者〉という最高で最強の拠り所が傍らにいてくれる限り、私たちは私たちの人生を、その意味を十二分に享受しながら、謳歌することができる。だから、私たちは先ず以て他者を信頼し、その意味を見出すべく努力しなければならない。私たちには、他者がいなければならない。

 ここで、AとBの二者による相互勇震のプロセスについて考えます。
 〈A〉がBを信頼し、その〈地平〉の上で勇震する。〈B〉はその〈A〉の勇震に共震するとともに、その〈A〉の偉容そのもののうちに、「〈自分〉が自分の〈地平〉の上で進み続けるということは、この〈自分〉という存在に負託された使命であり宿命である」という仕方で、自らの生きる意味を覚知する。そして、〈A〉のこの尊き献身に報いるべく、今度は〈B〉がAを信頼し、その〈地平〉の上で勇震する。その〈B〉の勇震によって、〈A〉もまた自らの生きる意味を知覚する。互いに信頼し合い、互いに勇震し合い、互いにアクセスし合い、互いに変成し合うこのプロセスのうちに、両者の「生きる意味」がある。

 第二に、伝統Cと、それを携えた組織に連関するAとBの三者による相互勇震のプロセスについて考えます。
 〈A〉がCを信頼し、その〈地平〉の上で足掻く。その〈A〉の勇震に共震して、〈B〉もまたCを信頼する。〈A〉と〈B〉は互いに勇震し合い、Cの〈地平〉の上で自分たちが進み続ける意味を覚知する。互いにCを信頼し、互いに勇震し合い、互いに変成し合うそのプロセスのうちに、両者はその連帯を強化する。そしてきっと〈C〉もまた、〈A〉と〈B〉のその尊き勇震に共震し、自らの存在に意味があることを知覚する。相互にCを信頼し、相互に勇震し合い、相互に変成し合うそのプロセスのうちに、三者はその結束を錬磨する。〈C〉による返報も、きっとどこかでやってくる。
 〈A〉を先人、〈B〉を後人とすれば、〈A〉の勇震に〈B〉が共震するとき、それは「伝統を継承する」ということになります。〈後人〉が伝統を信頼し、その〈地平〉の上で足掻き続けるとき、〈先人〉は伝統という〈地平〉の上に息衝く自らの存在を肯定することができます。翻って考えれば、〈後人〉が伝統のことを「旧弊」とか「老害」とか言って弊履を棄つるが如く性急短絡的にかなぐり捨ててしまえば、それは〈先人〉を前にして「君たちの努力は全くの無駄だったんだよ」と吐き捨てるということに等しく、〈先人〉のその尊き挺身を水泡に帰するということに他ならないのです。
 伝統という〈地平〉の上で進み続けることの意味を〈伝統〉自身が確信しなければ、伝統は自らの生を肯定することができません。「生ける伝統」とは、成員が「それにはきっと、もっとずっと豊かな意味が眠っている」とそれを信頼し、その意味について考え続けようとして初めて成立するものです。その意味を信頼し、その意味を見出すべく懊悩呻吟煩悶し、傲慢な白面から謙虚な聖賢へどこまでも変成成熟し、先人の想いと伝統にその献身で以て意味を与えるということ、それが後人に課せられた使命なのではないかと私は思います。
 

 大学サッカー界が進化するためには、先ず以て大学各人が、能動的であれ受動的であれ、その既成の〈秩序〉を解体する必要があります。ここで言う所の能動的〈解体〉とは、平生から競技力向上を期して日々の鍛錬に懸命に励むということであり、受動的〈解体〉とは、「他の大学に敗北する」という仕方で変則事象を受難するということです。その意味で、「他の大学に勝利する」ということは、どの大学も等しくその双肩に担っている「役割」であると言えます。その「勝利の仕方」のうちに、大学各人のアイデンティティが存することになります。
 「『スポーツ推薦がないのに、どうしてソッカー部はこれほどまでに強いのか』『サッカー的な実績も経歴も希薄な非エリート集団であるところのソッカー部がどうして、世代屈指のサッカーエリートが犇めくこの関東大学サッカーリーグの中で勝ち続けるなんてことが可能なのか』『サッカーなどなくても将来困ることなんてきっとないだろうに、どうして、これからサッカーで食っていこうという我々がソッカー部に負けなければならないのか』と、他の大学の選手に(意識的であれ無意識的であれ)思わせる」ということのうちに、本塾ソッカー部の存在意義は存していると私は思っています。私たちは、一般的な合理性では決して回収・理解し得ない仕方で────「責任」「利他」「総和」────、他の大学の〈秩序〉を解体に導き、大学サッカー界の進化に貢献しなければなりません。そのために先ず以て私たち自身が謙虚に構え、100年の己が歴史と伝統の前に粛然と襟を正し、その意味について信頼し、思量し、組織への忠誠で以てそれに意味を与え、そして与え合い、相互に変成してゆくということから始めていかなければなりません。「謙虚」によって「進化」に開かれ、「責任」「利他」の〈混沌〉のうちで仲間とともに足掻き続け、その先できっと結実する「総和」で以て勝利を重ね、「ソッカー」の更なる発展繁栄の礎を築く、それが、私たちの標榜する理念────「ソッカーは進化する 謙虚・責任・利他・総和」────に込められた切実な想いであります。
 体育会ソッカー部100歳の誕生日プレゼントに「一部奪還・早慶戦勝利」を捧げられますよう、現役部員一同、より一層精進して参ります。今後とも「ソッカー」への熱く黄色い御支援・御声援のほど、よろしくお願いいたします。

 ソッカー部の上に神の榮光あれ。傳統の光の中に吾人を生かせたまえ。

《NEXT GAME》
未定

 

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