2022.10.29 引退ブログ
「夢と覚悟」(宮本稜大)
平素より大変お世話になっております。商学部4年の宮本稜大です。
倉橋紹介ありがとう。彼女とは高校からの知り合いで、周りの同期はみんな「マナ」と呼んでいましたが急に変えるのも気恥ずかしく、結局4年間「倉橋」と呼び続けていました。高校時代の追っかけ(某W大学R.T君)兼専属カメラマンからソッカー部のマネージャーとして4年間チームのために働き、高校時代から素晴らしい写真を何枚も提供してくれたことにはとてもとても感謝しています。あと食べ物をくれたことも。マネ部屋で会うといつも何かしらのいじりを加えてきますが、私は大人なのでしっかり対応してあげています。これからもそんな温かい目でいじってくる彼女を見守りたいと思います。
倉橋の紹介はこの辺にしておいてそろそろ本題に移ります。
私もこれまでのみんなと同様に毎年先輩たちのブログを楽しみに、少し寂しくなりながら読んでいましたが、いざ書く側になってみると非常に感慨深いものがあります。牧野のブログが更新されてから何を書こうか毎日考えていました。普段私のことをかなり舐めている後輩たち(塩貝、入江などなど)をぎゃふんと言わせるようなかっこいいブログを書きたかったのですが、そんなかっこいいことが全く思い浮かばなかったので、最後は自分が抱えていた夢を軸に自分の気持ちを等身大で書いていきたいと思います。長く纏まりのない文章になってしまうかもしれませんが最後までお付き合いいただけると幸いです。
私はサッカーをするのが大好きだ。
普段あまりサッカーを観る方ではないかもしれないが、サッカーをすることにおいては部の中でもだいぶ上位で好きな自信がある。
サッカーを辞めたいって思ったことは一度もないし、サッカーから離れたいって思ったことは、中学時代の恩師に「おかま」と叱られていた時や、高校時代に相手のタックルを受け着地で肩を脱臼した時に肩を外してベンチに戻ったら「お前のタッチがでかいせいだ!」とブチギレられた時や、大学時代に西が丘の観衆の前で途中出場して7分で代えられた時ぐらいだ。これを考えればもう少しあるかもしれない。
それはともかく、3歳の頃、当時のおかあさんといっしょの歌のお兄さんがサッカーをやっているからというだけで始めたサッカーはいつしか自分の人生の一部となり、夢は「歌のお兄さん」から「プロサッカー選手」に変わっていた。そしてそれはサッカーを続ける以上は絶対に自分の中では変わらない、変えられない夢であり目標であり続けるはずだった。
小・中学生の頃は、ただ漠然とスタジアムやテレビで見るあのかっこいい選手たちにいつかはなりたいなぁと思っていた。小学校の卒業式でも中学校の卒業間近にもみんなの前でサッカー選手になると話をした気がする。そこに、明確なビジョンがあったわけでもないし確かな自信があったわけではないけど、その他に自分の目指す夢なんて存在しなかった。
高校に入ってからは少しプロの世界が身近になった。先輩がプロになったり、毎年対戦相手の選手が何人かはプロになっていった。もちろん、高卒からプロになる選手は別格に上手かったし、自分のレベルがその基準に達していないことは分かっていたが、そんな選手たちとサッカーをすることで自信が得られたのも事実で、高校を卒業する頃にはサッカー選手になることが夢からはっきりとした目標に変わっていた。
少し長くなりましたがここからは大学時代について書いていこうと思います。
プロになるためだけだったら他の大学に行ったほうが良かったかもしれない。ただ、私は「プロになる」という大きな目標を掲げると同時に、ずっと大事にしてきた文武両道を達成するため、そして憧れの早慶戦の大舞台で活躍する姿を両親に見せるために慶應義塾体育会ソッカー部の門を叩いた。
2月頃に初めて練習参加をさせていただいたCチームではついていくのがやっとで、それまでのサッカー人生でありがたいことに常に試合に絡んできていた私にとって、TOPチームがはるか遠く感じたことに衝撃を受けたことを今でもよく覚えている。高校までに積み上げてきた自信はあっという間に崩れてしまったけれど、プロになりたい気持ちは絶やすことはなかったのでなんとか大学サッカーに食らいつこうと頑張った。その甲斐あってか、4月にはBチームに、夏休み前にはTOPチームに運良く昇格することができた。TOPチームに上がってからは、さらに強度も上がり、自分の力不足を痛感させられる毎日ではあったが、そんな環境に身を置いたことが今の自分の糧になっていると今更ながら感じている。デビュー戦のファーストプレーで1対1を外したり、当時交代枠が3枠の中で出戻りしたりと上手くいかないことも多く、2部優勝の力にはなれていなかったけれど、大学1年目にしては非常に濃い時間を過ごすことができた。
2年目は、1年時の悔しさを晴らすため、そしてプロを目指すにあたって1部の舞台で自分のプレーがどれだけ通用するか非常に楽しみだった。1部でこの1年間活躍できたら本当にプロになれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたが現実は全く甘くなかった。出場機会は1年時に比べたら格段に増えたが、レベルの高いDFに何度も潰される日々。多少スピードが通用したとしても決定的なチャンスに絡めない、そもそもシュートさえ打たせてもらえない。FWとして試合に出させてもらっているのに何1つ結果を残せず試合終了のホイッスルを聞く虚無感を何度味わっただろうか。結局リーグ戦を通して多くの試合に出場したが、ゴールを決めたのは味方のシュートに足を延ばして触った1点だけだった。幸いにもチーム全体としては、何とか踏ん張り1部残留を成し遂げることができ、来年も同じ舞台に挑戦するチャンスを先輩方が残してくれた。ただ、シーズンを通した自分のプレーを振り返ると、目標と現実に大きなギャップを感じ、これまで変わることなくまっすぐプロを目指してきていた自分の思いに何か深いモヤがかかってしまったように感じた。今までの自分であれば「来年こそは絶対活躍してプロになる」と決意できていたかもしれない。でも自分の変わるはずのない目標に違和感を覚えてしまった私は、「来年も通用しなかったらプロになるのは諦めよう」とまるで諦める道を探すかのように考えてしまっていた。
そんな気持ちで臨んでしまった3年目のシーズン序盤は全くと言っていい程上手くいかなかった。練習では自分のプレーができず、スタメンはもちろんベンチに入れない時もあった。冒頭で話した7分で交代したのもこの時期だった。今年通用しなかったらプロを諦めようと思っていたが、もう諦めた方がいいかもしれない。自分のネガティブな気持ちはどんどん大きくなっていった。それでも、不甲斐ないプレーを続けてしまっていた私をチームは信じて起用してくれており、その思いだけは踏みにじってはいけないと全力でプレーした。そんな中で私はシーズン初ゴールを決めた。観客の入ったスタジアムでチップキックでループシュートという練習でも打ったことのないような自分でも訳の分からないゴールだった。一瞬時が止まったように感じたが、ゴールが入った瞬間の歓声が聞こえた時、小・中学生の時に漠然と夢を見ていた瞬間と重なりサッカー人生1番の興奮を感じた。またそれと同時に、こんな瞬間をこれからももっと味わいたいと思えた。自分の中にまだその気持ちが残っていることに気付けてからは、ネガティブな気持ちは消え去りもう一度純粋にサッカーで上を目指せるようになった。それからの毎日はチームとして厳しい残留争いの真っただ中ではあったが、リーグの試合がある度に格上の相手と試合ができることにワクワクしていた。もちろん何もできず非常に悔しい試合もあったが、特に3年の後期は日を追うごとに自分の成長を少しずつではあるが感じることができていた。それでも、リーグにインパクトを残すまでの活躍はすることができず4ゴールでシーズンを終え、チームとしても終盤の怒涛の追い上げで最終節まで残留の可能性を残していたが、あと一歩のところで残留することができなかった。最終節の自分の決定機2回、それだけでなくあの試合であのシュートを決めておけばという後悔がいくつも頭に流れ込み、最終節の直後に涙する先輩たちの前では申し訳なさ過ぎて涙すら出てこなかった。あの光景は今でも鮮明に思い出すことができるし、多分これからの人生でも一生忘れられない出来事だろう。こうしてプロを諦める理由を探すようにして始めたシーズンが終わった。サッカー人生で1番感情の起伏が大きい1年を過ごし、改めてサッカーの酸いも甘いも知ってしまったことで結局この1年では結論が出ず、将来について悩む日々を送ることになった。
3年目のシーズンを終え、どんなに悩んでいても着々と日付は進んでいき、自分の中で結論を出せないまま就活をするかしないか決断するタイミングを迎えた。プロになることを目標に入部していたはずなのに、私はここでプロになるという覚悟を決めることができず少しずつ就活に時間を割くようになっていった。サッカーをするのは今も昔も大好きでサッカーに対する情熱がなくなったはずではないのに、プロだけに絞ることでこれからの将来の先行きが見えなくなることにビビっていた。幼少期から追いかけてきた夢は、自分の中ではその程度のものだったのかと就活をしている時は何度も自己嫌悪に陥った。プロになることを諦めたくない自分と安心を求める自分の中で葛藤していたこの時期はとても苦しかった。2月の終わりごろにそんな感情を持ったまま監督との面談が行われた。そこで私は就活を始めていること、それでもプロへの気持ちを捨てきれていないことを伝えた。すると監督は、その決断に対し否定することなく、どう転んでもいいようにサッカーも就活も全力でやれと伝えてくださった。就活を始めてしまったことに後ろめたさを感じてしまっていた私は、この言葉を掛けていただき少し気が楽になった。そこからはサッカーの調子も上がっていき、去年の責任を取るためにも、自分の将来を切り開くためにも、ラストシーズンは絶対に結果でチームに貢献してやると意気込んでいた。しかし、リーグ戦開幕10日前にふとしたプレーで腿裏を肉離れしてしまった。ここからが長いトンネルの始まりだった。なんとか開幕までに試合ができる状態に回復させて開幕3連戦に臨んだが全く思い通りのプレーができず、チームに貢献しプロを目指すどころかチームの足を引っ張っていた。しまいには3戦目で怪我を悪化させてしまいチームを離脱した。開幕前に思い描いていた自分の姿とあまりにもかけ離れすぎていて自分でも心が追い付かなった。そんな気持ちとは裏腹に就活の時期は進んでいき、御社でこんなことをしたい、社会に出たらこんなことをしたいと将来について話す日々が続き、ただでさえ遠いプロの世界がますます遠ざかっていくことを感じていた。それでもトレーナーである徹さんの多大なるサポートもあり、5月にもう一度試合に出られるチャンスをいただいた。ここからがもうプロになるラストチャンスだと考えて試合に挑んだ。しかしその試合で私はまた肉離れを再発させた。痛みを押して試合に出たわけでも違和感が残ったまま試合に出たわけでもなかった。それでも再発した。やはり就活を始めた自分がプロになるチャンスを求めること自体間違っていると突き付けられた気がした。そこで私は絶対に変わることのないと信じていたプロサッカー選手という夢に区切りをつけた。自分の心の中で区切りを付けた日は柄にもなく一人で静かに泣いた。それでもサッカーが嫌いになることは全くなかったし、最後までやり抜くことが今まで自分のサッカー人生でお世話になった全ての方々にできる恩返しだと思った。7月末頃に復帰をし、山中合宿・早慶戦などを経て10月から後期残り9節のラストスパートが始まった。残り9節を残してチームは昇格も目指せるし降格の可能性もある立ち位置にいた。プロという目標はもう無くなってしまったが、去年の借りを返すため、慶應があるべき場所に戻るため全力を尽くすことを心に決めていた。だが再開初戦のアップ中に肉離れが再々発した。なんとか試合に出ようと強行出場したが前半15分程度で交代した。本当に自分が情けなかったし、試合後無理して気丈に振る舞う自分にも嫌気が差した。次復帰してもまた怪我をするのではないか、大きな不安が自分に付き纏った。そんな時に助けになったのは周囲の言葉だった。「また怪我したの?」「老害じゃん!」といじられることも多かったが、「早く復帰して」「ドロのゴールが見たい」と何気なく伝えてくれるみんなの一言が嬉しかった。残り3試合、このブログが上がる時には2試合で自分がその内どのぐらい出場できるかわからないけれど、どんなに自分がチームに貢献できてない時にも同期後輩関係なく、時には強烈ないじりを交えながらも温かく受け止めてくれたこの100人を超える大所帯の組織のためにピッチ上で身を粉にして戦う覚悟はできている。プロという目標には区切りをつけてしまったけれど、今の私のサッカー人生最後の目標は「結果でチームに恩返しをすること」である。
思いのほかとても長く自分の思いを綴ってしまいました。
私の4年間を振り返ると後輩たちに何かを言えるような立場ではありませんが、ここからは少し伝えたいなと思ったことを書いていきます。
私は入部当初に掲げた最大の目標を達成することはできませんでした。単純に実力も足りなかったけれど、そもそもの覚悟が足りなかったなと振り返ると思います。それが3年の始まりに諦める理由を探してしまった時か、就活を始めてしまった時か、5月の時点で区切りをつけてしまった時かは分からないけれど、目標を達成する程の覚悟がきっと私には足りなかったのです。プロになることや、早慶戦や関東リーグに出場することなどみんなにもこの部にいる以上何らかの目標があると思います。自分ができてなかったから偉そうなことは言えないけれど、その目標を達成するための覚悟をずっと持ち続けてほしいなと思います。目標に全力でぶつかっていけたら、それが達成できてもできなくてもその過程に大切な価値があると思います。終わった後にあの時腹くくって違う選択をしていたら…と後々考えるのは少し、いやかなり寂しいです。長いようであっという間の4年間全力で駆け抜けてください。あと少し一緒に頑張ろう!
それとクマ、ササグ、ナナサ、タケル、コーセー、コーダイ、トモキの久我山勢には特に頑張ってほしい。みんなの名前が挙がってくることを楽しみにしています。
最後に感謝の言葉をこの場をお借りして述べさせていただきます。
友峰さんをはじめとする社会人スタッフの方々
こんなにも怪我しがちで体力もなくテクニックもない扱いづらい選手に、戦術、技術共に沢山のことを教えてくださり、多くの試合に出場させていただき本当にありがとうございました。またピッチ内だけでなくピッチ外でもまだまだ未熟な私に様々な声掛けをしてくださったことにも非常に感謝しています。ラストシーズンまだ何もできていないことが心残りですが、どんな形でも必ずチームの勝利に貢献できるように全力を尽くします。最後まで宜しくお願いいたします。
徹さん
この1年間怪我ばかりで本当に沢山ご迷惑をお掛けしてすみません。
最後まで見捨てずにサポートしていただきありがとうございます。
徹さんの治療を受けている間はとてもリラックスできて、沢山お話をすることができて嬉しかったです。残り数日間宜しくお願いいたします。
三浦さん、小池さんにもこれまで慶應のトレーナーとして怪我しがちであった私のために多くの時間を割いて治療をしていただき感謝しています。本当にありがとうございました。
同期
俺はグラウンド、所、部室、試合会場とかで凝りもせず揃いも揃ってほぼ毎日同じようなことを言っていじってくれる同期みんなのことが大好きです。腹が立つことも、はたから見たらやばいこと言われている時もあったけれど、ある意味どんな時もたくさん笑い飛ばしていじってくれる同期の存在に救われていました。だからこそもっと同期のためにできることがあったのではないかと今とても感じています。あと残り数日、俺は部の代表としてまた4年の代表として全力で戦います。それが今自分のできる1番の貢献だと思ってる。ラスト死ぬ気でやり切ろう。
両親へ
まずは大好きなサッカーを最後まで何一つ不自由なく続けさせてくれて本当にありがとう。お陰でサッカーができただけでなく、自分の人生において一生の財産になるような沢山の大切な人と出会うことができました。
母さん、普段から未だに喧嘩はするけど、それでも毎朝自分より早く起きて朝ご飯を作ってくれてありがとう。車も出してくれてありがとう。最初は恥ずかしかったけど今では過保護をネタに自慢げに話しています。
父さん、普段からそんなにサッカーの話をするわけではないけど、中学の頃から大事な試合は大体単身赴任先から帰ってきて見に来てくれるし、地味にiPadのホーム画面が俺のサッカーの写真だったりして嬉しかったです。
2人には長年の夢をかなえる姿を見せて恩返しをしたかったけど、社会人になったら違う形で恩返しをしたいと思うので待っていてください。
自分で読み返すと本当に長くまとまりのない文章になってしまっていましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。
次のブログは、齊藤滉(4年・FC町田ゼルビアユース/都立町田高)です。
彼とは指定校推薦で入学したところから始まり、学部、部活、ゼミ、バイト先が一緒でなんかいつも一緒にいる気がします。彼は屈託のない笑顔と分厚い唇を武器に、どんな環境でも愛されキャラです。ヒカルのことが嫌いな人に出会ったことがありません。初対面の先輩に妖精みたいと言われている時は引きましたが。ただ試合中に相手を削った後「すしざんまい」しながら笑顔で審判に話しかければ許してもらえると思っているところは直してほしいです。そんな彼としゃべる内容は9割以上がしょうもないことなので、激動の4年間を過ごした彼が本音で書くブログがとても楽しみです!
《NEXT GAME》
11月6日(日)関東リーグ戦 第21節 vs 東海大学 @非公開 14:00キックオフ