オフィシャルブログ

「マイ・ウェイ」(古川勇輝)

2019.07.27

古川勇平素よりお世話になっております。今回部員ブログを担当させていただくことになりました総合政策学部1年の古川勇輝と申します。ソッカー部に入部して初めてのブログということで、私の今までのサッカー人生について書かせていただこうと思います。拙い文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。

高校時代にゲキサカで私の特殊なキャリアを題材に「マイ・ウェイ」という記事を書いてもらったことがある。これはその記事の続きあるいはそこで話したことの詳細だと思って読んで欲しい。

私は今までのサッカー人生でチームの中心として活躍出来たことがない。チームの中心を任せられても、チームを勝利に導けるだけの力がない。私は「中途半端」なのだ。

小学校低学年まで千葉県の少年団とクラブチームを兼任していた私は、過去の栄光ではあるが県内敵なしといっても過言ではなかった。現在、FCTwenteに在籍する中村敬斗選手とは幼い頃からのライバル(本人にも確認済)で、お互いが所属していた少年団ではしのぎを削り、クラブチームでは同じチームメイトとして1学年、共に飛び級してプレーした。

人生における分岐点その1。柏レイソルジュニアのセレクション落選。絶対に受かると思い、臨んだセレクションだったが、結果はまさかの彼はパスし、私だけが最終選考で落選。ここでサッカーを辞めるかどうか迷った。しかし小さい頃からグアルディオラ元FCバルセロナ監督(現マンチェスターシティ監督)の創り出すサッカーが好きだったので(本当はこの理由以外にももっとあるがここではこの理由だけにしておく)小4から、スペイン・バルセロナへサッカー留学することを決断した。

この落選から私の「中途半端」なサッカー人生は始まる。

留学1年目にはバルサにもエスパニョールにもトライアウトを受けさせていただいた。しかし、どちらも最終選考で何かと理由を付けられて落とされてしまった。理由は付けられたが単純に入れるだけの実力がなかったのだ。結局、私はカタルーニャ州内ではバルサとエスパニョールに次ぐ実力を持つであろうコルネリャというチームで1年目を過ごすことになった。1年目のシーズンを、チームの主力として30試合28得点とまずまずな結果で終えた。しかしチームは16チーム中7位と奮わず、大事な試合で点を取るというよりも弱い相手に点を取る、所謂「雑魚専」的な選手だった。

留学2年目。同じコルネリャというチームでシーズンを迎えることになった。2年目のシーズンには同じリーグにバルサやエスパニョール、ジローナなど強豪揃いのグループで戦うことになった。シーズンを通してチームはバルサ、エスパニョールを退けて1位でフィニッシュした。自分としてもシーズン序盤は15試合16得点と納得のいくプレーが出来ていた。ただ、シーズン終盤。徐々に私の出場機会が減っていった。プレーするポジションも本職であったフォワードから左サイドバックに移され、全体的に見ると尻すぼみなシーズンを送った。

留学3年目。人生における分岐点その2。コルネリャからの移籍。チームをサンガブリエルという新天地に移し、飛び級して1つ上の学年に混ぜてもらってプレーすることになった。しかし、そこで待ち受けていたのは手首の開放骨折という奇しくも計画通りとは言い難いアクシデントだった。新チームになって今年こそはと息巻いていた私だったが、シーズンインして間もなく、4ヶ月近い離脱を余儀なくされた。結局、復帰後も1つ上のフィジカルに勝るだけの技術を発揮出来ず、このシーズンは棒に振ったと言ってもおかしくはない1年だった。チームはバルサ、エスパニョール、ともう1チームに次ぐリーグ4位と健闘したが、その好成績に全く貢献出来なかった。

留学4年目。サンガブリエルでは出場機会を得ることは出来ないと感じた私は、チームに移籍を要求し、新天地をガバというチームに移した。このチームでの今年の目標はリーグ1部昇格。同じリーグにはバルサのその年代のBやかつて所属したコルネリャなども所属していた。このシーズンは開幕から得点を挙げ、スタメンで出場する機会も多く上手くいってチームの優勝にも貢献出来る…はずだった。シーズン中盤から徐々に調子を落とし、終わってみればリーグ終盤はほとんどがベンチスタート。チームも最終節でバルサに1位を奪われると言う結果に終わった。

人生の分岐点その3。バルサのFIFAからの移籍禁止処分、外国人選手の出場禁止。その時期その処分がバルサ以外の周囲のチームにも適応されるかも知れないという可能性が出た。この処分により久保建英選手が帰国した様に私も次のシーズンが始まる前に日本に帰国することになった。ここで問題が発生。帰国後のチームだ。スペインが1年毎に移籍があるのに対し、日本ではジュニアユースという3年間そのチームに在籍するのが一般的であるのは周知の事実だと思う。しかし運が良かったのか、丁度私が帰国する間際に大宮アルディージャジュニアユースがスペイン遠征を行っており、奇跡的にそこに帯同する許可を得ることが出来た(ここで許可が下りていなかったら私は日本で路頭に迷うこととなっていただろう)。

中学2年から中学卒業までの1年半はアルディージャジュニアユースで過ごすことになった。3年での関東リーグでも序盤はスタメンで出ることもあったが、夏のクラブユースを関東予選で敗退してから、夏のアンケートで私はユースに上がることを拒否して(そもそも上がりたいと言っていても上がれなかったが)関東リーグの後期、高円宮杯の全国大会での出場はベンチからだった。

高校は埼玉県の昌平高校に進学した。高校1年の入学の頃はJ下部を嫌うコーチの影響もあり、1年の中のAチームにいるのもやっとという立ち位置だったが、私のことをよく見ていただいた先生の抜擢でボランチにコンバートされ、そこから早い段階でBチームに昇格し県リーグの2部で戦わせてもらった数少ない1年の1人になることが出来た。選手権の県準決勝で敗退した後、発足した新チームでは新人戦の直前に怪我をしたものの、今後の成長が期待されている選手が付ける14番を頂き、スーパーサブとして新人戦優勝、関東予選優勝に貢献し、関東大会ではチームの主力として優秀選手に選ばれた。インターハイでは優勝候補としてチームは注目され、個人としても注目される程だった。結果、2回戦で準優勝の日本大学藤沢高等学校に敗れはしたものの、チームの主力になって今までの中途半端な人生からの脱出も近いのかなと思っていた。この考えが甘かった。慢心していたのかも知れない。選手権予選ではスタメンとして出場してはいたが、パッとしたプレーは出来ず全国大会では怪我もありベンチスタートとなった。この年も有終の美は飾れない。3年に進級し、自分達の代の昌平は昨年から出場していた選手が多かった為、とてつもなく期待されていた。その中で、チームの中心選手が代々付けてきた7番を貰った。背番号のプレッシャーは果てしなく重かった。自分がなんとかしなければ。とその重圧に負け(元々自分に7番を付けるだけの技量が無かった)新人戦、関東予選ではベスト8止まり、県リーグも開幕3戦勝ち無しと泥沼のスタートを切った。そのプレッシャーを言い訳にはしたくないが、歴代の7番と自分とでは雲泥の差を感じた。中々チームとしても個人としても結果を出せず、膝の怪我もあり私は7番をシーズン途中で剥奪されるという醜体を晒した。その後、14番に戻りインターハイ第3位の一員として一応貢献したが、卒業まで再び2年時のあの注目を浴びる輝きを取り戻すことは出来なかった。

今までの人生は山あり谷ありと言うが、私の人生の谷は深い。しかも周期が早い。今まで書いてきた私のサッカー人生を見てもらえば分かると思うが、とことん「中途半端」なのだ。有終の美を飾ったことがない。いつも途中までは良いのだが最後まで続かない。いつも「惜しい」で終わるのだ。良いとこ止まりの選手なのだ。

この人生を変える可能性のあるきっかけ的な出来事が起きた。大学生活でも大事な所で結果の出せない可もなく不可もない無難な選手と思われながら送ってきたが、先日、私が現在所属しているBチームのIリーグで筑波大学と対戦した時、後半43分に投入されファーストタッチで勝ち越しゴールを決め、これが決勝点となった。初めて自分がチームという神輿を担ぐ舁夫の一員になれた気がした。やっと勝利に直接的に貢献出来たと感じた。これが果たして私の「中途半端」な人生のトンネルを抜け出すきっかけになるのか。それは分からない。ただするしかない。そうでなければ、大学生活でもまた有終の美を飾れず、「中途半端」な尻すぼみな残念な結果に終わってしまうのだから。

つづく

最後までお読みいただきありがとうございました。今後共、ご支援ご声援の程宜しくお願い致します。

《NEXT GAME》
8月4日(日) 関東リーグ戦 第9節 vs東海大学
@RKUフットボールフィールド 18:00キックオフ

記事一覧

月別アーカイブ