オフィシャルブログ
「余裕」(山田維新)
2021.09.30
平素よりお世話になっております。法学部政治学科4年で中等部サッカー部コーチの山田維新です。
勇輝、紹介ありがとう!
その職を辞めてパスタ愛好会会長に就任してたのに、それを知らないくらい離れていると思うと悲しくて涙が止まらないよ。後聞いた話だと、周り5人の影響で自分という人間が形成されているらしいので、万が一僕の頭がおかしかったとしてもそれは僕のせいではありません。
高校までは選手としてサッカーに向き合っていたお陰で、チームの一員として自分が何を出来るかということについて学ばせてもらいましたが、大学でのコーチ活動では、中学生が相手とはいえチームをどのように動かしていくのかという真逆のことを経験させていただけたお陰で、考えることの尽きない充実した4年間を過ごすことが出来ました。人生で一番楽しかったことだと、胸を張って言えます。
いよいよ、二郎本店の行列を横目に綱町グラウンドへと向かう日々も終わりに近付いてきました。練習終わりに空いてきた二郎に行くか行かないか論争を最後までやり遂げたいと思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
誰しもが余裕のある男になりたいのではないかと思っています。僕はその一員です(ベタですね〜)。
コーチ人生を振り返ってみると、コーチなりたての頃に人にものを教えることの難しさを実感し(残念ながら今もですが)、口下手なので中学生の前で幾度となく言葉に詰まり、そのお陰で練習メニューはグダグダになり、そこからくる焦りから選手に怒りをぶつけるなど、失敗は多かったと思います。
選手にも大変手を焼きました。思春期真っ只中をひた走る中学2年生は特に厄介で、彼ら自身もコントロール出来ない感情に振り回され続け、僕自身も感情がコントロール出来なくなり、、、今となっては楽しい思い出です。
そんなこともありましたが、やはり”教える立場”という責任感がコーチには常に付き纏うものなので、選手時代よりサッカーを学び、可愛い教え子を成長させるために試行錯誤をし続け、信念と熱い気持ちでチームを引っ張ることが出来ていた自負はあります。
もちろん、その状況ではコーチとしての余裕は一切ありませんでしたが、大きく成長は出来ていたのだと思います。
4年生となった今、新しく入ってくるコーチのサポートも出来るようになってきました。
自分のやりたいこととチームで求められていることのバランスが取れるようになってきましたし、様々な場面で失敗する回数も減り、急な練習の変更にも対応出来るようになりました。
例え失敗したとしても、同期である足助の言葉を借りると「まあこんなこともあるっしょ」と言って視野を広く保ち続けられています。
もちろんこれはチームに良い影響を与え続けようとしてきた4年間の成果であり、組織を支える4年生として貢献出来ているのではないかと思っています。
でも余裕を持つことが増えると同時に、目の前のことにがむしゃらに食らい付いていくことが減っていく寂しさも感じます。
僕の尊敬する先輩は尖りきっていた僕達を受け止める優しさを持つ一方で、川崎フロンターレの下部組織の練習を不審者と間違われながらも見に行って勉強したり(尊敬してます)、毎回の練習で新しい発見をして同時に悩みの種を手に入れていたりと。
昔を思い返していると、今の自分は余裕を持て余しているのではないかと感じます。最初にも書いたようにあくまでも僕は余裕を持っている男に憧れている訳で、その大切さも理解していますが隣の芝は青いというか、無い物ねだりというか、何とかかんとか。
もちろん社会人になればこんなことをぼやいている暇など一切ないと思いますし、有難いことに中等部コーチは3月の末まで部活に関われますので、最後まで闘い抜く同期の姿をしっかりと目に焼き付けながら、今の自分に満足することなく精進していければと思っています。
拙い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後共、ソッカー部への温かいご支援ご声援の程、宜しくお願いいたします。
次は髙木龍之介です。最近、少し長い髪を後ろで結んできたら、中学生全員に小室圭さんの様だと絡まれ続けていました。そういうところが彼の武器だと思っています、羨ましいです。
今も昔もほぼ毎日顔を見ているので思い出を挙げるとキリがないですが、今の自分を形成する一人なのではないでしょうか。そういうことです。
《NEXT GAME》
10月2日(土)関東リーグ戦 第18節vs明治大学
@非公開 11:00キックオフ
「666」(眞木勇輝)
2021.09.29
平素より大変お世話になっております。清水凜太郎からバトンを受け取りました、商学部4年の生粋の慶應ボーイこと眞木勇輝です。メンヘラワ、、、ボーイとは、本当に沢山の時間を過ごしてきました。ここには内容を書く事が出来ない沢山の死闘を闘ってきた戦友です。これからもお互いの体が壊れるまで、「お国のために」戦いましょう。引退してからは毎日のようにリンから電話が掛かって来ると思うので、引退したらすぐブロックしたいと思います。
ついに私にも4年ブログの担当が回ってきてしまいました。小学校からサッカーをしてきた下田グラウンドにもさよならを告げないといけない日が近づいてるのは、ゴーイング・メリー号に別れを告げるルフィのような気持ちであり、下田の事を考えるとあの名シーンがいつも頭から離れません。本当にありがとう下田。
前置きが長くなりました。ソッカー部での最後のブログですが、正直私は後輩にお手本となるような先輩ではありません。むしろ逆の先輩ではありますが、そんな私でもソッカー部の4年間で感じた事について書かせていただきたいと思います。文頭で分かると思いますが、物凄く文を書く事が苦手です。拙い文章ではありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
【運命の出逢い】
時は大学1年生。大学という場所は、私が高校生の時に想像していたよりも遥かに華やかでした。日吉の並木道に、体育会とサークルの人達が沢山1年生を勧誘する為にチラシを配り、気付けば私の両手には沢山の勧誘のチラシで一杯だった事を今でも思い出します。
そんな私は高校でサッカー選手としての限界を感じ、大学ではサッカーではなく、アメフト部に入部したいと思っていました。しかし、私には小学校から10年間続けてきたサッカーを辞めるという決断が出来ませんでした。ほんの少しの自分への可能性とサッカーを辞めるのが怖かったからです。
そんな感じで当時の私は強い意志を持ってはいませんでしたが、ソッカー部に入部する事になりました。やはり、強い意志を持って入部しなかった大学1年生の私は、大学にある沢山の誘惑に負けてしまい、オールでそのまま練習に行ったり、ほぼ毎日友達と遊んでしまい、全くサッカーに本腰が入っていない状態でした。気付けば、1年間私は何も成長する事なく、あっという間に終わっていました。
そんな私でも2年生になった時にある社会人コーチと出逢い、私は人として、サッカー選手として少しずつ変わる事が出来ました。その社会人コーチとは、テソンさんです。テソンさんには、サッカーの戦術や技術を教えて貰ったのは勿論ですが、それよりも「人」として大切な事を教えてもらいました。それは、
「チームの為に、誰かの為に、自分を犠牲にし、一生懸命頑張る事」
です。
一見これは当たり前と思うかもしれませんが、2年生の時の私からはかけ離れた考え方でした。私は、どんなにチームが大敗しようとも、自分のプレーが良かったか、今日は何人ドリブルで抜けたかとか、いつも自分の事しか考えていませんでした。テソンさんはいつも「皆で大きな1つの船を漕ぐ必要がある。誰1人欠けてはいけない。」とおっしゃっていました。
私はこの時から少しずつチームに対する考え方が変わり始めました。テソンさん、トミヨシ(R2卒)、関さん(R3卒)を中心にチームメイトの為に頑張る、走る、戦うを意識するようになっていきました。本当にありがとうございました。
【Zチームでの1年間】
私は3年生になり、Zチームで活動する事になりました。この1年間は私が大きく人として飛躍出来た年でありました。2年生の時にテソンさんから学んだ「誰かの為に一生懸命頑張る事」を自分にしっかり落とし込めて、体現出来た年でした。
なぜ、今まで自分のプレーさえ良ければ良いという私の考え方がこんなにも大きく変わったのか?
それは、「自分を犠牲にしても、頑張りたいと思う人達」に出逢えたからです。
Zチームは、主に4年、3年で構成されているチームだった事もあり、「老害チーム」と言われる事もあった。私は、その話を聞く度に自分が批判される以上にムカついた。それは、特に私の先輩であったZチームの4年生がサッカーの技術でも人としても素晴らしい人達である事を私は誰よりも知っていたからです。
それからは、「老害チーム」とは周りに二度と言わせない為に、とにかく全ての試合でZチームを勝たせる事だけを考えてプレーしていた。その時から、私は自分のプレーよりもチームの勝敗を気にするようになっていた。自分の好きなドリブルで相手を何人抜けたとかそんな事はどうでも良かった。とにかくチームを勝たせる為にひたすら走って、闘った。とにかく、Zチームの価値を証明する為に結果が必要でした。
この頃から、私はZチームの副将を任せられるようになりました。これは明らかに、私がソッカー部に入って人として、少しは変われたという証明でもあったと思います。
Zチームは、「全国制覇」という目標を掲げ、毎日努力していた。しかし、全国制覇という目標には届きませんでした。副将として導く事が出来ず、本当に悔しかった。2020年12月16日の事をこの先、私は忘れる事はないだろう。試合が終わった後の空気感は言葉には表す事が出来ないが、あの感覚を今も凄く鮮明に覚えている。チームのムードメイカーでもあった鶴君(R3卒)がグラウンドに倒れていたあの光景は忘れられない。副将になったにも関わらず、特に何も出来なかったし、勝たせられなくて本当に悔しかった。すみませんでした。僕にとってZチームで活動した1年間は、掛け替えのない時間でした。本当にありがとうございました。
【最後に】
ここまで、長々と書いてきましたが、いったい何を皆に伝えたいかというと、
「誰かの為に一緒懸命頑張る事が、実はサッカー選手としても人としても大きく成長する事が出来る。」という事です。
この「誰か」は人それぞれ違くていいのです。ある人は家族の為かもしれないし、友達の為、同期の為、先輩の為、後輩の為、指導者の為。とにかく自分が1番頑張れる人の為に一生懸命頑張れば良いのです。
私は今年TOPチームで活動していて、特にTOPの4年とは毎日一緒に練習しているからこそ、彼らのストイックな姿を私は沢山見てきました。そんな姿に私自身、沢山刺激を受けました。毎日本当に練習はきついし、絶対乗り越えられないと思う困難も皆が横に居たから、頑張れたのだと思います。そして、現在関東リーグでチームは苦しい状況にありますが、残り1ヶ月「同期の為」に、今まで沢山私を助けてくれた「同期の為」に僕の出来る限りの力を発揮してチームの勝利に貢献したいと思います。4年皆で、「最後に笑えるように。」、そして必ず関東1部という素晴らしい舞台を後輩達に残しましょう。
皆も自分の為ではなく、誰かの為に頑張ってみるのはいかがでしょうか?
【感謝】
そして本当に最後にこの場を借りて感謝の言葉を伝えさせて下さい。ここからは読まなくても大丈夫です。
まず、秋葉(4年・慶應義塾高)、リン(4年・Sockers FC Chicago Academy/William Fremd High Schoo)、ケンタ(4年・慶應義塾高)の3人には特に感謝したいです。私のソッカー部での4年間を語るのに、彼らなしでは語る事が出来ない程の時間を一緒に過ごしてきました。過ごしすぎて、今更感謝を直接本人達に伝えるのはとても恥ずかしいので、この場を借りて感謝を伝えたいと思います。ここからは堅苦しい書き方は辞めたいと思います。絶対照れるなよ?笑
ミッチャンこと秋葉とは高校のサッカー部で出逢った。最初の印象は、「あのロシア人誰?」という印象で、恐る恐る話しかけてみると、めちゃくちゃ日本語喋るから、日本語上手い外人だと思った笑。秋葉は高校の時は下ネタを話すのがNGだったけど、今では率先して自ら話してくる。一緒に楽しく話してくれて、嬉しいです。そんなムッツリな秋葉だけど、物凄く頭が良くて、どんな状況でも俯瞰して物事を冷静に判断する事が出来るから、頭の悪い僕をいつも助けてくれたね。ケンタとリンも比較的頭が悪い方だから秋葉の存在は俺にとっても、ケンタ、リンにとっても欠かす事は出来ない存在です。いつもありがとう。後、流石に白過ぎるから引退したら日焼けサロンに通ってね。
リンはアメリカから来たクレイジーボーイ。リンの最初の印象は、めちゃくちゃ塾高と桐蔭に媚び売ってくるな、という感じだった笑。とにかく、入部したてのリンのサッカー中の口癖は、「ナイス〜、グ〜」この2つだった。この2つ以外で試合中に喋る事は本当になかったよな笑。そんなリンの並大抵の人間では出てこない発想やクレイジーさには本当に沢山笑わせてもらいました。でも、本当は全部根が真面目でチキンなのを隠すフェイクなの知ってるよ笑。いつもありがとう。だけど、いくらメンヘラでも、連絡を5分無視しただけで、出るまで電話を掛けて来るのはもう辞めてね笑。
最後にケンタ。ケンタとは中学のクラブチームで出逢った。ケンタと対面パスをした時に俺が「足どっち利き?」って聞いたら「俺両利き。」って言ってきた時のあのドヤ顔が忘れられない笑。そんなケンタとも今年で10年目の付き合いになる。ケンタとはソッカー部の部員の中で1番多くの時間を過ごしたと思う。ケンタとはほぼカテゴリーもずっと同じで、家も物凄く近いから毎日順番に車を出しあって、練習や試合に行ったね。いつからかケンタとの移動中のトークは俺にとって掛け替えのないものになっていました。そして、ケンタは、私が思う1番上手いサッカー選手だ。波はあるけど笑。中学の時から本当にサッカーが上手かった。ケンタの活躍は自分のことのように嬉しいけど、1番悔しいと思う瞬間でもある。俺にとってケンタはライバルのような存在なのかもしれない。勝手に俺が意識してるだけだけど笑。今後サッカーでもそれ以外でも一生ライバルと言える関係でいれたらと思います。本当にありがとう。
ありがとう。
どんな辛い日々でも、楽しいと想えるのは、3人のお陰でした。これから先、何年、何十年と変わらずに馬鹿な事をし続けましょう。
先輩・同期・後輩へ
こんなに個性豊かな人達はいないだろうと思うくらい、個性豊かな同期に囲まれました。こんな自分と遊んでくれた後輩達ありがとう。来年もサッカー頑張ってね。そして引退してからも遊んでくれる先輩達。あなた達から学んだ事は数えきれないです。本当に皆さんありがとうございました。皆の今後の人生が素晴らしいものになる事を願うばかりです。
小学校から大学までで出逢った人達へ
この文を読んでくれてるか分からないけど、皆の活躍を聞く度に、誇りに思えたし、自分ももっと頑張らないといけないと思った。そして特に高校サッカー部のマイメン達よ。こんな僕と今でも変わらず、ずっと付き合ってくれてありがとう。皆と居る時間は、嫌な事も全て忘れられるくらい最高の時間だった。これからも、大人になっても、よろしく。
両親へ
お金がとても掛かり、真面目で良い息子ではありませんが、サッカーをしている私にだけは、期待してくれているような気がします。だからこそ、最後サッカーで活躍した姿を見せられればなと思います。
そして、4年間ご指導して下さったコーチングスタッフの方々、日頃ご支援いただいてるOBの皆様、ソッカー部を応援して下さる関係者の皆様、本当にありがとうございました。
本当にまとまりがなく、拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
今後共、ソッカー部へのご声援の程宜しくお願い致します。
そろそろ日本酒愛好会の会長である山田維新に次のバトンを渡したいと思います。維新とは高校のサッカー部からの仲です。維新と会う時は、大抵維新がおかしい状態の時に会うので、まともな話をした事がありません。そんな彼が何を最後書くのか楽しみで仕方がありません。
《NEXT GAME》
10月2日(土)関東リーグ戦 第18節vs明治大学
@非公開 11:00キックオフ
「お国のために」(清水凜太郎)
2021.09.28
「あ、あ、あー、マイクチェックワンツー、ヨンヨンプラス3もちろんルールはアンツー」秋葉とは、ピッチ内外で非常に多くの時間を共に過ごしました。私は彼に1回も遠慮したことがありません。まさに真の友です。頭の回転が速く、年下なのにいつも私に色々と指摘してくれる彼に会えて良かった。秋葉、これからも一生宜しくな。来年社会人になってもオレの事見捨てないでな!
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それでは自己紹介します。部室大好き、総合政策学部4年の清水凜太郎です。人生で1番辛かったことは何?って聞かれたら、「コロナで部室を使えなかった数ヶ月間」と答えます。皆との部室の時間がなくなるんだと思うと目から涙ポロリ。そして飲むキンキンのポカリ。あーい。
では、私の渾身の引退ブログ。読んでもらえたら幸いな限りです。ここまで読んで「なんだコイツ」と思ったそこの方、今度浦山(1年・慶應義塾志木高)と私と3人で武蔵家ですすりましょう。
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ソッカー部に入部して良かった。これは今の私の感情です。素晴らしいコーチ陣、格好良くて尊敬出来る先輩、可愛すぎる後輩、そして大好きな同期に会えたからです。そもそも私は、アメリカの大学でサッカーを続けることを決めていました。しかし、両親と話し合った際に、日本の大学で練習参加してきなと言われ、唯一練習参加をさせてくれたソッカー部に高校3年の冬に練習参加しました。練習では、全く歯が立たず、日本の大学サッカーのレベルの高さに圧倒されたのと同時に、素晴らしい設備や環境、部の雰囲気の良さから私はソッカー部に憧れを抱き、絶対にこの部活に入ると決意しました。あの日の練習後のダウンで、この人本当に面白いなと思ったトモハヤさん(R1卒)と一緒にサッカーをしたいなと思ったのも、入部したいと思った理由の一つです。

大学1、2年の頃は体育会という組織の文化に圧倒されました。参加メールや練習前の仕事集、授業がない日にトップの試合のビデオ撮り、補助学、週末の試合の応援からの夜の紅白戦、毎日始発通学、鹿島ハイツ、菅平合宿、J-GREEN堺、毎日ミーティングなどなど全てが自分にとって新鮮で刺激的なものでした。一見このように並べて見てみると、凄くキツいと思うかもしれませんが、どんな時もいつも隣には同期がおり、キツかったけど楽しく充実していました。そんな中でも私が好きなのは「応援」でした。90分間立ちながらも、同期達と語りながら、喉が潰れるまで応援する時間が幸せでした。あの時、隣にいた同期達が現在、関東の舞台で活躍しているのが感慨深いです。
大学3年時は、1番精神的にキツかった時期でした。何故ならば、公式戦に1試合も出場することが出来なかったからです。試合に出れない中、フィジカル部門の一員としてチームに貢献出来たと思えたことが唯一の救いでした。後輩達よ、試合に出れない時は腐るのではなく、何でもいいからチームのために何かしよう。何かの役職に就いたり、紅白戦でめちゃくちゃ頑張ることでスタメンや同じく出れない仲間に刺激やモチベーションを与えたり何でもいいんです。貴方の頑張りは、絶対に誰かが見てます。実際に、全く試合に出てなかった私がZチームに残れたのも、黄大俊コーチが、私がフィジカル部門員としてチームに良い影響を与えていると思ってくれていたからだと、シーズンが終わって知りました。無駄な頑張りや努力なんてこの人生においてないんです。
4年生が引退し、新4年となり、私に何か心の中で自覚と責任という花が芽生えました。最後に組織のために何かしたいという思いです。一体感溢れるBチームにしたいと思い、Bの主将に立候補しました。主将という役割を担うことで、常に周りから見られていることから、一つひとつの言動に気を付けるようになりました。大事なのは言葉と行動が伴っているかです。自分が1番言うからこそ、その分行動で見せようと頑張りました。途中で骨折してしまい、離脱し、Bチームの皆には思い描いていた姿は見せられなかったけど、やって良かったです。4年になって自分が丸くなったと後輩から言われますが、それは4年という自覚と責任を抱くようになったからだと思います。模範となるような4年の姿を最後まで全うします。

ここからは後輩に向けて書きます。
唯一無二
貴方の強みは何ですか?就活じゃないです。サッカーにおいての強みです。この問いに対して1人でも答えることが出来ず、サッカーにおいて悩んでる部員がいるのであれば、少しでも参考にしてもらえれば幸いです。ここ最近、監督もおっしゃっていますが、あれこれやる時間は4年間の内にはないと思います。自分の強みを伸ばすのにあらゆる時間を費やすことが重要だと思います。パスが弾んだり、トラップが下手くそだったり、伸び悩んでいるそこの君!技術なんていいから君の強み/ストロングポイントを一つ決めて、練習、試合、自主練でとにかく磨こうよ!その繰り返しがいつの日か君を唯一無二のオリジナルプレイヤーにさせてくれるよ!私は、4年になって監督から「一等兵」と呼ばれ、一等兵が何なのか知らなかった私はGoogleで調べました。旧陸軍の兵の等級の一つと書いており、あまり意味が分からなかったが、なんとなく自分のプレースタイルであり、強みというのは「相手に恐れずに球際で突っ込むスタイル」、まさに一等兵なのではないかということに気付きました。さらに監督も自分のプレースタイルを把握してくれているので、自分の中でのモヤモヤが吹っ飛び、ラスト1年はこのプレースタイルを徹底しようと決意しました。もっと早くに気付けば良かったと後悔してるので、私の無念は後輩であるバックパスの申し子に託します!
次に大事なメンタリティーを二つ紹介したいと思います。「Everything happens for a reason」と「感謝の気持ち」
Everything happens for a reason
私の大好きな言葉です。カテゴリー落ち、大事な時期での怪我、上手くいかない時期など色んなことを部活で経験すると思います。でも、全ての出来事には起きる意味があります。なので、悔しかったり、悲しくなったりしても、ここを何とか頑張って乗り切れば、絶対に形勢逆転出来ると信じて頑張って欲しいです。
感謝の気持ち
この環境を当たり前だと思ってはいけない。勝利のために夜遅くまで戦術や練習メニューを考え、想像を超えるほど試合に関する細部まで分析し、考えて下さる監督や学生コーチ。社会人スタッフと選手の間に入り、組織を纏めてくれる学生スタッフ。練習を休み、オレ達のために運営をしてくれる学連兼選手。この伝統ある組織や環境、関東1部という素晴らしい舞台を残してくれた先輩達。そして家族。これらがあるからこそオレ達はサッカーが出来る。感謝と責任を持って日々の活動に励んでほしい。
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最後に洋子さん、健太郎さん。いつも私にサッカーをやらせてくれてありがとうございます。私はサッカーのお陰で、多くの素晴らしい親友や仲間に出逢うことが出来、沢山の思い出を作ることが出来ました。サッカーのない人生など考えることが出来ません。社会人スタッフの方々。常に素晴らしい練習環境、人生において大事なことを教えて下さり、ありがとうございました。特に友峰さんと福本コーチ。友峰さんのチームの勝利への努力、貢献、厳しさの中にある優しさには、とても感謝しています。福本コーチ、頼りない私を信頼しているか分からないですけど(?)開幕戦から起用して下さり、本当に有難う御座います。同期の皆、いつもオレのくだらないジョークに付き合ってくれてありがとう。一人ひとりの個性が強いこの代が同期で本当に良かった。I love you guys so much.ついに私の大学サッカー人生もロスタイムに突入しました。1番試合が動く時間帯です。ここでどうやり切れるか、どう頑張れるかで今年のソッカー部の成績や個人のサッカー人生に大きく影響すると思います。そして、試合に出れることが出来たらピッチで、出れないとしても日々の練習やピッチ外から後輩、監督、コーチ陣のために、オレ達のプライドのために、何とか「関東1部」という素晴らしい舞台を残すために、最高の時間を与えてくれたソッカー部という「お国のために」、持っている力を全て出し切って後悔のない1ヶ月にします。
相変わらず長くて内容が薄く、拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。今後共、ソッカー部へのご声援の程宜しくお願い致します。
次は溝の口生まれ、慶應育ち、負けず嫌いボーイの眞木勇輝の出番です。人前で絶対に弱みを見せない彼とも、ピッチ内外で非常に多くの時間を共にしました。何でか分からないけど、私は彼のことが大好きです。朝練の際に眠くて機嫌が悪い彼に無視されると悲しいんだよなー、でもI love you bro. こんなこと書いてると、この前の立正戦で大活躍し、携帯のロック画面、携帯の裏にガールフレンドの写真を貼っている愛妻家の賢汰(4年・慶應義塾高)から「メンヘラだな〜」と言われてしまうのでここまでにしておきます。見た目はクールで中身は仲間想いで熱い彼が何を書くのか凄く楽しみです。眞木、アメリカに行っても毎日Facetimeしような!
《NEXT GAME》10月2日(土)関東リーグ戦 第18節vs明治大学
@非公開 11:00キックオフ
「無駄な過去はない」(秋葉満喜)
2021.09.27
平素より大変お世話になっております。
大薗慶悟からバトンを受け取りました、法学部政治学科4年の秋葉満喜です。ゾノは私が今まで接してきた人間の中で1番キャラが濃く、一生忘れることはないです。部室でのゾノからの絡みに悩まされ眠れない時期もありましたが、それも誰かを笑わせるための絡みだと知り安心しました。
遂に4年ブログの担当が回ってきてしまいました。高校1年生の時からの7年間、毎日のようにしてきた下田でのサッカーが終わりを迎えると同時に、「東横線直通Fライナー特急元町中華街行き」にお世話になることも少なくなると考えると、卒業をひしひしと感じます。
前置きが長くなりました。ソッカー部での最後のブログですが、今後の自分に向けた自戒の意味も込めた文章を書いてみようと思います。そして口にしたことのない想いも赤裸々に書けたらなと思います。メッセージ性に欠け、纏りのない仕上がりになっているかと思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
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「空白の1年」
ソッカー部生活を振り返る上で、自分にとって1年生時代は欠かせない。
ソッカー部生活の始まりは自分の想像と大きくかけ離れたものだった。10人弱で構成された新入生チームはほぼ毎日6:30練。そして練習メニューはランメニューと対人メニューの繰り返し。対人メニューでは一対一の勝敗によってポイントが付き、ポイントが低い人のみが追加でランメニューを行うものだった。一対一で負け、走って、体力が残っていない状態で一対一を行い、また負けて走る。この負のスパイラルが精神的にもきつかった。この生活が2週間程続き、「今週でこの走り終わらなかったら流石に辞めたい」って皆で帰りながら話していたのが懐かしい。
そんな形で始まった1年生のシーズンは「存在価値」という言葉に悩んだ1年だった。この1年は、DチームFW陣の7、8番手(選手の名前が記されているボードのマグネットをいつも下から確認していた)、Iリーグメンバー入り0回。そして、サッカー以外のピッチ外の面でも何もチームに貢献出来なかった。もしかしたら何かチームに貢献すること自体諦めかけていたのかもしれない。既に1年生の時から黄色のユニホームを身に纏い、関東の舞台で戦っている同期がいた。自分と同じようにサッカーでチームに貢献出来ていない同期だって部門活動に力を入れたり、練習で誰よりも声を出したり、皆自分が出来ることを通してチームに貢献しようと、自分の存在価値を発揮しようともがいていた。でも、自分はそのような状況を受け入れて、どうにか前に進もうと考えることが出来なかった。自分に甘く弱い人間だったから。そして、今の自分、等身大の自分と本気で向き合わないといけないとはっきり気付かせてくれたのは、”あの新入生チーム”で共に歯を食いしばっていた同期がその年のIリーグ最終節のピッチで戦う姿だった。1年の時の試合の記憶なんて全然残っていないのにこの試合だけは今でも鮮明に覚えている。「自分は何をしているのだろう」と、はっとさせられたから。気付けば1年のシーズンが終わろうとしていた。負の自分と本気で向き合うのが遅かった。「困難な時こそその人の人間力が出る」とよく言われるように、自分の人間としての未熟さを痛感する1年間だった。そして、今後の人生においても教訓にしなければならない1年間でもある。
この経験をしたからこそ、自分との向き合い方、特に困難な状況に陥った時の負の自分と向き合えることが出来るようになったと感じる。二度とあのような1年を経験したくないから。
「デジャブ」
2年生のシーズンは割と試合に出させてもらえるようになり、一戦力としてIリーグを戦うことが出来たシーズンだったが、シーズンが終わる頃に再びDチームの最下層に戻ってしまっていた。また1年前と同じ状況、完全にデジャブだった。でも自分の気持ちは1年前とは大きく違うもので、「切り替えてここから這い上がろう」と思えている自分がいた。そして思考が変われば自ずと行動も変わり、結果も変わった。3年生の時には、Zチームに昇格し、最高のメンバーとサッカーをすることが出来た。決して美談にしようとも思わないし、たかがカテゴリーが上がっただけの話である。実際ソッカー部でまだ何も成し遂げていない。でも、確実に、困難から逃げずに自分の足で一歩前に進めた感覚がそこにはあった。もの凄く小さな一歩かもしれないけど、本当に苦しかった分、大きな自信になった。
以前の自分から前に進めた先に待っていたのは、「このチームで、このメンバーで全国に行きたい」と心の底から思えるメンバーだった。まさか一緒にサッカーが出来ると思ってもいなかったスーパーな4年生達。1年の時のように、また一緒のチームでサッカーをしたいとずっと思っていた同期。サッカーの実力は認めるけど少し生意気な後輩。自分は多くの試合には絡めなかったのは事実としてあるけど、そんな自分個人のことなんてどうでも良いと思えるほど最高のチームだった。
「4年の意地」
これまで1年生時代の恥ずかしい過去を中心に振り返ってきたが、トピックは「4年の意地」という現在に移っていきたい。
いつかのイチローが言っていた。「無駄な過去はない。全くミスなしでそこに辿り着いたとしても深みは出ない。遠回りが1番の近道。」と。1年生時代を失敗のままにするか、イチローが言うように「無駄ではない過去」に出来るかは自分次第。自分の人生はまだまだ道半ばであるが、ソッカー部人生は残り約30日。残された時間は僅か。個人としてもBチーム所属だし、BチームとしてもIリーグでは上位に食らいつけるか下位に沈むかの瀬戸際にいる。前期は多くの試合に出させてもらったにも関わらず、チームを勝利に導くことが出来なかった。最後の最後まで出し切る。やり抜く。結果を出す。そして引退する時に、歴代の先輩方が残してくれた舞台と、「4年の意地」という非科学的だけど毎年4年生に見せてもらってきたものを後輩に残す。関東の舞台を目指す一選手としても、Iリーグ1部で戦うBチームの一員としても、最後まで足掻こう。
最後にこの場を借りて感謝の言葉を伝えさせてください。
4年間ご指導して下さったコーチングスタッフの方々、日頃ご支援いただいているOBの皆様、ソッカー部を応援して下さる関係者の皆様、誠にありがとうございました。
そして、
Bチームの皆へ。
前期は苦しかった。けど、最後何が起こるか分からない。ラスト3試合、福本コーチ、三浦(3年・慶應義塾高)、れん(3年・慶應義塾湘南藤沢高等)、あべしん(4年・多摩大学目黒高)と共に積み上げてきたトレーニング、そして自分達を信じて戦おう。全国への可能性を繋げよう。
そして同期へ。
最近、同期と4年間の思い出話をする度にひしひしと感じるけど、個性豊かなこの同期に囲まれて良かった。慶應を背負って関東の舞台で戦い続けている人、下から這い上がって活躍している人、自分の時間を削ってチームのために動いてくれている人、明確なビジョンを持ち行動している人、考えて努力し続けている人、皆を笑顔にしてくれる人、粗相しちゃう人、お酒飲むと変わっちゃう人、イントネーションおかしい人など、あまり踏み込んで書いてしまうと良くないからここら辺にしておくけど、本当に皆から刺激を受けているし、尊敬している。ありがとう。これからも宜しく。
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本当に拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
今後共、ソッカー部へのご声援の程宜しくお願い致します。
そろそろソッカー部No.1ラッパーの清水凜太郎がマイクを握りたそうにしているので彼に譲ります。まだ入部する前、新入生のLINEグループで彼の写真を見た時、隣にいた眞木(4年・慶應義塾高)と「アメリカからやばい奴がくる」と目を合わせたのを今でも覚えています。金髪姿でガタイの良いアメリカ人に囲まれながら映っていたのです。そんな彼とはピッチ内外において多く時間を共にしてきました。彼は「あのー、〜でして、〜であるからこそ〜すべきで、でも〜でして、〜」と1回喋り始めると喋り終えるまで「。」が付かないことで有名なのでしっかりとブログが書けるのか、同じく多くの時間を共に過ごしてきたケンタ(4年・慶應義塾高)と一緒に心配しています。ですが、根は真面目で重度の友達想いである彼が何を書くのか凄く楽しみです。次、宜しく!
《NEXT GAME》
10月2日(土)関東リーグ戦 第18節vs明治大学
@非公開 11:00キックオフ
「人を慶ばせる」(大薗慶悟)
2021.09.26
平素より大変お世話になっております。4年の大薗慶悟です。
さて、とうとう私の番が回ってきたようです。僕がどんな文章を書くのかとワクワクして夜も眠れない後輩達や同期、先輩方が沢山いたことでしょう。毎年先輩達が卒業ブログを書く時期が来ると同時に、先輩達との別れを感じ、どこか寂しい気持ちになっていたのを思い出しました。しかし、後輩達からは「まだ一緒にいたい」という気持ちが伝わってきません。。。うん、きっと気のせいだよね。。。
既に素晴らしいブログを書き終えている同期達がいて「ここで俺か」と思ってはいますが、誰かのためになるブログになればそれだけで幸せです。
私からは「挑戦」、「鬱との闘い」、「父の教え」についてお話したいと思います。拙い文章ではありますが、最後まで読んでいただければ幸いです。
第1章 「挑戦」 尾崎豊の教え
私は宮崎県というど田舎で中学までの15年間を過ごした。中学3年時、よりレベルの高い環境に身を置き、夢である「選手権の舞台に立ちたい」という一心で周りの方々、そして両親の意見を押し切り15歳の時に上京を決め、桐蔭学園高校に入学した。入学式の日、誰一人として友達のいなかった&標準語が話せなかった僕は人生で初めて「孤独感」と「焦り」を覚えた。廊下からサッカー部の同期達が僕のことを見て何か話しているのを見て、怖すぎて寝たふりをしていたのが今では懐かしい(その集団に同期の吉田剛君(4年・桐蔭学園高)もいました。)。高校から一緒の吉田君は私の宮崎弁を聞いて「何を言っているんだ、こいつは。」と思っていたことでしょう。そんな何もかも分からないところからスタートした高校生活だったが、サッカーや私生活においてもかなり苦戦した。私生活においては、友達作りと標準語をマスターすることに苦労した。入学式の時、自己紹介した際に皆に笑われたり、バカにされたりと、とても悔しかった。それからは毎日クラスの人に話しかけ、標準語を勉強しながらも友達になって下さいとお願いしていた。またサッカーに関しては特に苦労した。関東と九州ではサッカースタイルが全く異なるからだ。しかし同期の人達や先輩に分からないことを聞いて回った。(実は井上さん(R3卒)とかなるさん(R3卒)が自主練の際によくパスをしていたのだが、トラップやパスの際の足の当てどころやコツを、観て学んでいました。感謝。)
私が思うに、人間というものは窮地に立たされた時こそ積極的に動き、自分の立ち位置や成功を手に入れようとする力を発揮すると思う。
何かに挑戦したいけれどその環境に身を置くことが怖い、挑戦したいけれど自分には無理だ、挑戦しても成功出来るか分かんない、と言い、挑戦を恐れている人が多いと思う。しかしその挑戦した環境においても掛け替えのない仲間、大切な人達、新しい経験、成功を手に入れることが出来る。またその数と比例して自分自身の幸せも大きくなっていくと思う。
僕の子供の頃から好きな歌手に尾崎豊という歌手がいます。彼がライブで言った言葉で、「何となく暮らしやすくなった、みたいに思うかもしれない。だけど、そういう暮らしやすさに妥協して、本当に大切なもの、失くしちゃいけないものを、失っていく怖さみたいなものを、僕はいつも感じてる。」という言葉と「弱い犬ほどよく吠えるって言うけど 何もしないよりはマシなんだぜ!」という言葉がある。15歳の私にはこの言葉がぐさっと刺さった。自信がない時は尾崎豊の曲を聴けば自分に自信が持てると思います。上から言っているみたいで申し訳無いのですが、皆挑戦して成功を掴み取りましょう。
第二章 「鬱との闘い」
卒業ブログでなんなんだ、この重い話は。そう思った人もいるでしょう。しかしどうしてもこの経験を聞いて欲しいため、書くことにする。私はある日突然、「何もしたくない。誰にも会いたくない。」という気持ちになった。それからは部活にも行かなくなり、ご飯も喉を通らない状況に陥り、終いには体重が10キロも減ってしまった。そう、鬱である。私は何故鬱になってしまったのか、毎日毎日考え、その悩んでいることに更に悩まされ負の連鎖に陥った。私を知っている人は分かると思うが、常に明るく元気な人間ではあったが、そんな私が鬱になり自分でもビックリした。そんな僕を救ってくれたのが仲間である。私のことを心配した仲間達は当時の私にとても優しく寄り添ってくれたり、優しい言葉を掛けてくれたりした。一見普通のことだと思うかもしれないが、その時の自分にとってはあり得ないくらい大きな力になった。高校からお世話になっていて、私の中では神に近い存在でもある鶴田さん(R3卒)は「何か買って家に届けてあげるよ」と声をかけてくれ、相談にもたくさん乗ってくれたりした。同期の北澤(4年・國學院大學久我山高)や小山内(4年・青森山田高)は電話をくれて僕に元気をくれたり、家に来て励ましてくれたりもした。僕の元カノは毎日電話をくれたり、笑わせてくれたりした(ブログは見てないであろうが本当に感謝している。)。そして監督。私のことを合宿所に呼び、説教されると思ったが、「自分のペースでいいから、サッカーが好きなら、したくなったら、いつでもグラウンドに来い」と言って下さった。正直もう辞めた方がいいと言われると思っていた私はそのお言葉をいただき、「またサッカーがしたい」という気持ちが強くなった。他にも多くの仲間が私に寄り添ってくれた。仲間のお陰で今もこうして大好きなサッカーを続けられています。本当に本当にありがとう。鬱というものは言葉では表せられないくらいしんどく、苦しいものだ。もしかしたらなってしまう部員もいるかもしれない。そうなった時には私の周りの仲間のように、優しく寄り添い、相談に乗ってあげて欲しい。それがその人の救いになるから。
第3章 「父の教え」
私の父親は「人を慶ばせる」ということの大事さを幼い頃からずっと言い続けられてきた。私の名前にもその意味を込めて「慶」を入れたらしい。幼い頃の私はあまりそのことを理解出来ずにいたが、あることをきっかけにその言葉の大事さに気づいた。それは「祖母の存在」である。私の母型の祖母は脳の腫瘍で倒れ、東京の病院で手術をした後、宮崎県の介護施設で暮らすこととなった。当時小学生だった私は学校帰りに毎日、祖母のいる施設に行き介護をしていた。アルツハイマーも持っていた祖母は「誰でしょう?」って聞いても「分からない」とか、ご飯を食べたばかりなのに「ご飯はまだ?」と聞いてくる程だった。しかし、祖母が日に日に体調が悪くなっていくのを目の当たりにした私は、このままだと絶対後悔すると感じた。それからは絶対に祖母を笑わせて帰るという目標を立て毎日施設に向かった。たまに苦笑いもあった気がするが、名前も覚えてない自分のことを笑ってくれた。とっても嬉しかったし幸せだった。
亡くなる瞬間、祖母がとても幸せそうな顔をしているように私は見えた。言い渡されていた寿命から4年も長く生きてくれた。私が必死に慶ばせていたことも少しは祖母の活力になっていたかもしれない。この経験で初めて父の言っていた「人を慶ばせる」という言葉の意味をはっきり理解出来た。
この「人を慶ばせる」という教えは大学においても引き継いでいる。私はよく部室でふざけたり、ラップをしたりしているのだが、何もただふざけているわけではない。「一人でも笑わせて帰ろう」ということを1年時に決めてから今まで継続できている。(たまにしけますが。。。)今では僕のモノマネを後輩達(特にマシロ(3年・慶應義塾湘南藤沢高等部))が真似をしてくれ、正直とっても嬉しい。これを観た後輩達も是非周りの人達を慶ばせて欲しい。試合で勝利に貢献して皆を慶ばせること、両親に感謝の気持ちを伝えること、部室で笑わせること、生活していれば色んなところに慶ばせるチャンスが転がっています。是非チャレンジしてみて下さい。
最後に今まで指導して下さったスタッフの方々、監督、OBの皆様、ともき(4年・慶應義塾高)、あべしん(4年・多摩大学目黒高)には感謝してもしきれません。本当に4年間ありがとうございました。
そして両親。15歳で東京に行くことを許してくれてありがとう。生活を支援してくれてありがとう。こんなに尊敬の出来る両親の元に産まれて幸せです。来年からは僕も社会に出ます。絶対に成功してありがた迷惑なくらいの恩返しをしてみせます。
拙い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
引退まで残り約1ヶ月となりましたが、同期共々走り切ります。
今後共、ソッカー部への温かいご支援ご声援の程、宜しくお願いいたします。
さて、次の担当はプルシェンコこと秋葉満喜です。生まれ持った肌のきめ細やかさと端正な顔立ちからは想像出来ない程ゴリゴリ系なプレーヤーです。部室ではいつも僕にデレデレしており、恐らく私のことが好きだと思います。そんな彼ですがフィジカル部門としても選手としても常に全力でかなり熱い男です。頭もかなり良いのでどんな文章を書くのかとても楽しみです。では秋葉君いってらっしゃい!!
《NEXT GAME》
10月2日(土)関東リーグ戦 第18節vs明治大学
@非公開 11:00キックオフ
- 「最幸のサッカー人生」(田村祐二朗)
- 「最後は勝って笑おう」(下谷秀太)
- 「恩返し」(川野太壱)
- 「必死のパッチ」(宮本景)
- 「虎の巻 “森友紀編”」(森友紀)
- 「こんな日でも神様は見ている」(廣田尚)
- 「コーチのバトン」(三浦竜佑)
- 「change before you have to〜変革せよ、変革を迫られる前に〜」(小林蓮)
- 「後輩たちへ」(横幕悠)
- 「自分なりの答え」(齊藤滉)
- 「夢と覚悟」(宮本稜大)
- 「微力でも、それでも」(倉橋真菜)
- 脱・「いてもいなくても変わらない存在」(川上くるみ)
- 「当たり前の毎日のために」(大嶽真恋)
- 「For」(竹本海人)
- 「決戦前夜」(宮澤開)
- 「情熱」(齊藤淨)
- 「他生の縁」(加藤翔生太)
- 「悪ガキの最後の悪あがき」(島田雄大)
- 「間違いじゃなかった」(岡田舜立)
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